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2002年7月28日(土)
AM 10:00〜12:00
上賀茂小学校 ふれあいサロン


 それゆけ !

 『上賀茂探検クラブ』


第5回

『紅葉音頭をおどりましょう

お   話  成田 く に 氏

踊り指導  玉置 とみ子 氏

     紅葉音頭保存会の皆さん

近江八景  高橋 智太郎 氏


講師紹介

成田 く に 氏

京都市北区在住
講師紹介

玉置 とみ子 氏

京都市北区在住
講師紹介

高橋 智太郎 氏

京都市北区在住
 




花 簪

この花櫛は上賀茂の北大路家に残っているもので、祖先の盛子様(天保9年1838−大正2年1913)が嘉永の頃(1850年)、明治天皇ご幼少の時に御守役として京都御所にご奉公されていた時、毎年、盆に催される御所の踊りにこの花櫛を髪にさして踊られたという由緒あるものです。


写 本
この写本は、上記盛子様の姉忠子様(文政4年1821-明治45年1912)の直筆で、習得された音頭十数番が書き残されています。盛子様は御所では音頭の達人で賀茂社家や公家侍に交じって音頭を取られました。

上賀茂紅葉音頭 は、昭和58年6月1日 京都市指定・登録文化財−無形民俗文化財− に指定されています。

紅葉音頭とは音頭取りと踊り手に分かれており、江戸初期から中期にかけて一帯に流行した伝統ある踊りです。踊り手は紺絣に三幅前垂れにたすきがけ、頭にかんざし、姉さんかぶりで、赤鼻緒の草履をはき、踊ります。 音頭取りが歌う「近江八景」「紅葉の錦」「里の秋」などの曲目が伝承されています。音頭取りは2つのグループで掛け合いをして、交互にうたいます。

紅葉音頭の作詞は、霊元天皇の時代に御所に仕官されていた冷泉為村という公家だといわれていますが、定かではありません。この方は、詩歌や和歌朗詠に通じた方でした。 また、踊りの所作は賀茂大野郷のさとの楽人である多基忠という方が、雅楽の舞の所作の中から手足の動きを取って踊りにしたといわれています。

ただし、色々な方が時代考証を踏まえ古文書の調査をされていますが、残念な事に未だに的確なものがありません。明治以前まではこの音頭は、賀茂の社家や公家侍のたしなみとして、受け継がれてきました。


紅葉音頭
音頭とり 2つのグループで掛け合いをする。
うたい方 ・・・     ・・・  高い音からでる
 ・・・ 基本:中くらいの音からでる
下地・・・ 低い音からでる
踊り手 紺絣に三幅前垂れにたすきがけ、頭にかんざし、 姉さんかぶりで、赤鼻緒の草履をはく。



近江八景
折々の 眺めにあかぬ琵琶のうみ なみも 音せぬ御世なれや 先づ打ち出での
浜すぎて。粟津の森やかげろうの。

はかなく消へし義仲の よしや浮世の雲はれて 

向ふ硯の石山や。書きつらねたる筆のあと 

光源氏の物語り 若紫の名にしおう 須磨や明石の浦までも 

心にうかぶあま小船 真野の入江にこぎよせて。つなでやさしき糸すすき 尾花が袖の露ふかき 

照る月なみを数ふれば 今宵は秋の最中とて さえ渡りたる瀬田の橋。向ふはるかに三上山。

古此処に弓とりの。放つ矢走の渡し守。雲の浮なみたつとみて。

帰る堅田に落る雁つばさにかけし玉章に。

如何なる情やこもるらん。比良の高ねの雪よりも。

恋しき人は三井寺の。夕べを告ぐる鐘の音に。通いくるわのかけあんど。 

ともす灯かげにこがれより。縁ときくやコレマ柴屋町 行来の 人もヤレ目をとむる。花のすがたの八文字。つとめのみにもいとしいと。 思いそめたる恋仲は。 まねくかむろが合図の手くだ。忍び逢う夜のそのうれしさに。言葉残して明かす夜の。別れを急ぐ鳥の音に。それから先の逢ふせさえ。ついそこそこに 契りつつ。 

帰る姿を見送りて一人立たる松が枝の。 かわらぬみさを 知り乍ら。 思いやりなき男気の。外にもしやと 案じられ。ねられぬ夜の袖の雨。打ちしめりたる文月や。長きと言いし秋の夜の。千夜を一夜に。なすとても。なほもたわむれ遊ぶえ



紺絣、三幅前垂れ、たすきがけ、頭にかんざし、姉さんかぶりをしたところ
練習風景


          
   第5回 紅葉音頭をおどりましょう 当日の模様


参加者   総合学習での紅葉音頭を調べる為に、毎週練習に参加している小学生を含め、
29名の参加がありました。


まず最初に、さわりだけですが、紅葉音頭を皆さんにお聞きいただきたいと思います。 紅葉音頭というのは、掛け合いで音頭があります。節の終わりから終わりから、かぶさるようにして次の節が入ってきます。どうぞそのあたりの掛け合いの妙というものを感じてください。では、よろしくお願いします。
ヤーットサー、アイノ、アラサー、ドーッコイノー、♪ おりおーりーのー ……


ありがとうございました。皆さんいかがでしたか?雰囲気は感じてくださったことと思います。

紅葉音頭というのは京都市指定・登録文化財−無形民族文化財―に指定されています。しかし残念ながら、上賀茂に伝わる音頭にもかかわらず、多くの方はあまり知らない状態で、保存会の方がたのご努力によって受け継がれている現状です。

そこで、わかりやすくするために、紅葉音頭に関する一問一答を用意してみました。 保存会の岩崎さんに、答えていただきます。岩崎さん、どうぞ、よろしくお願いいたします。

紅葉音頭って な〜に

質問 答え
紅葉音頭っていうのは、いったい何曲あるんでしょうか? 現在稽古しているのは、本に載っている12曲なんですが、全体で、  40曲あるそうです。
えー、そんなにたくさんあるのですか。すると、歌によって、節は、 ちがいますか? はい。ちがいます。
いろいろ曲が、あるのにもかかわらずに、どうして、紅葉音頭って言うんでしょう? それはね、文献があるわけでもないので口伝で先輩の方々から伝わってきておりますので、詳しくはわかりません。
踊りと歌と両方があるようですけれども、全員が歌いながら踊るわけでしょうか? そうじゃないんです。あのー紅葉音頭というのはね、掛け合いで2班に別れてするものですから、踊りもってというわけではなくて、踊る方は踊る方、音頭は音頭ということで今まできてるようです。
そうしましたら、この紅葉音頭というのは楽しむ為の芸能でしょうか?または何か宗教的な意味があるのでしょうか? 宗教的な意味って言うのは全く無いと思いますけど。大体どういったらいいのでしょうね、当時のたしなみということでしょうか?
紅葉音頭っていうのは盆踊りみたいなものでしょうか? いや、そうじゃありません。もともと御所の音頭とか御所踊りとか言われてきたようですが、大体音頭の方もスローテンポですし、踊りの方も非常に静かな雅やかな踊りだと聞いております。賀茂社家や公卿侍のたしなみとして受け継がれていたようです。
そうしましたらこの紅葉音頭というのはおめでたい事があったときとか、逆に悲しい時とか、厄除けみたいな意味があるとか、音頭自体に何か意味がありますか? そういうことは我々聞いた事が無いんですが、まあ、これは私自身の思っていることですが、踊りですからみんながよって非常に楽しい思いをしたとか、本当にみんなが一つの輪になってとてもいい雰囲気がでたような場合に、じゃあ、踊ろうじゃないかってたまには踊ってられたんじゃないかと思いますけど。これは私が思ってるだけのことです。
新しい歌は誰が作って歌ってもいいのでしょうか? 当時の文献が何にもありませんので、その当時、御所関係の上賀茂の公卿さんたちが作られたんだと思いますけど。そうですね、成田さん。   (いろんな方が創作されてるんだと私、聞いていますけど。)    ね、そうだと思うんですけど、文献というのが何にも無いのではっきりこうだと申し上げにくいんです。
この音頭はとってもスローテンポだと思うんですけれども、これは昔はしゃべりかたもゆっくりだったからでしょうか。それとも、子守唄として使っていたからゆっくりだったのでしょうか。分かりますでしょうか。 子守唄いう事ではないと思うんですけど、大体まあーどう言ったらいいんでしょうかねー。御所の関係のかたからこっちへ持って帰られて、皆さんが、音頭を覚えて踊られるようになったんですから。あるいはあのー♪おり-おりーー何ていいもって子供をあやしていた方もあったかもしれませんね。けど、そういうことは、定かじゃないんです。
昔は身分制度があったと思いますがどういう身分の人たちの中で伝えられていったんでしょうか? 上賀茂の社家の方、公卿さんですね、御所に勤められていた方が沢山おられましたのでそういう方の中に特に優れた方があって、その方が作られたんじゃないかと思うんですけど、とにかく詳しいことはわからないんです。
一度途絶えてしまったものを復活させたそうですけれどもどういう風にとだえたんでしょうか?そしてどんな風に復活させたんでしょうか? これはね大東亜戦争が始まりましてね、だんだん情勢が悪くなって、音頭を取られる男性の方もおられなかったんだと思います。 それで終戦後になりまして土地の古老の方達がどうしてもこの紅葉音頭だけは土地の大切な文化だから残していかんならんから、何とかして残して欲しいということで、婦人会の詩吟部が当時ございまして、『ぜひ詩吟部で残してくれ、それでなかったらここで滅んでしまうからぜひここでやってほしい』という要望があがったのです。 けれども、実は音頭を取ると言う事は、女性にとってはその当時ではすぐに『ハイ』とは言えなかったんですけど、とにかくこういう大切な文化だから、どうしても残していかなければいけない、ということで詩吟部のグループが立ち上がりまして稽古しだしたのが十数年前です。
この踊りは夜に行われるものですか? それもはっきりした資料がないのでわかりません。
私たちが考えた1問1答で大体の輪郭がわかるかなと思います。岩崎さんどうもありがとうございました。(拍手) では、成田さんの方からこのあとのお話をしていただきます。成田さん、よろしくお願いいたします。



紅葉音頭の歴史
  ただいまご紹介にあずかりました成田でございます。上賀茂の紅葉 音頭についてお話をせよとの事でございますが、何分今年米寿を 迎える歳になっておりますので、充分な事が申し上げられませ んが、私が知る限りの事を申しあげまして、少しでも、お役に 立てれば結構かと存じます。

すでに紅葉音頭集でご存知でしょうが、紅葉音頭は元禄の華や かな時代に、艶やかな衣装をまとい、踊ったものと思われます。

足利義満の時代に観世流一代目の能楽師がおられ、その子供が小 さい頃より父の薫陶を受けられ、また見様見真似と申しましょうか。 父よりずば抜けた創作や能楽に秀で、古今稀なる人物として将軍に 認められて、世阿弥という名を戴かれまして、二代目観世流となり、 謡曲の元祖を築かれました。
そして、古い文献・万葉集・古今集・源氏物語等から言葉を取り入れられて作られたものが謡曲だと思います。 その謡曲をアレンジして色々な音頭が創作されたのが紅葉音頭の始まりだと思います。

その裏付けとなりますものは、謡曲の中の内容がしばしば出てまいります。例えば、草子洗小町、俊寛、隅田川、羽衣、杜若などなどです。 冷泉家は藤原定家の子孫であり、二条・京極・冷泉と三家に分かれた歌道の家柄で、御所とは深い関係のお家でもありますから、その創作された音頭や所作を内侍や女御に教えられたのだと思います。それを以って御所音頭又は公卿音頭と名づけられたのでしょう。踊りの特徴は御所の玉砂利の上で踊ったのでスローで優雅に踊られたと思います。

その頃、社家の方で賀茂の季鷹(すえたか)(1751〈宝暦元年〉〜1841〈天宝12年〉亡くなられて161年)という国学者で、書道の達人でもあり、また歌道にたけた方が居られまして、この方の本名は山本で生山雲錦と号したのですが、初めは有栖川の宮に仕えられ歌を学び、19才で辞職され、その後江戸に出て加藤千蔭等の当代一流の歌人と交流し、歌名をあげられ、文化人の頼山陽という儒学者や蜀山人という狂歌・洒落本・滑稽本の作者等とも交流が深かったのです。

1788年〈天明8年〉今から214年前38才で京都に帰り、上賀茂神社の神官となられ、また御所にお務めになられて、紅葉音頭の創作や所作等を考えられたと子孫の方にお聞きし、確信を得ました。また、伊勢物語の傍注等もなさり、紅葉音頭も何種類か作られたとの事です。

その子孫の方は私の友人であり、或る日突然家に来られ、偶然に季鷹さんの歩んでこられた道程を知りました。
その方の申されるには季鷹さんの書かれた物や書物が紛失し、大変残念がって居られました。

御所にお勤めの頃は創作もされ、内侍や女御と踊り楽しんで居られた事でしょう。明治維新からその方々のお位が一つに統一され、女官と呼ばれるようになりました。上賀茂からも北大路家の方が女官として御所に上がっておられ、優雅に装い夜を徹して踊ったということを民間に伝えられ、今に残ったということこそ、上賀茂の女性の歴史だと思います。

季鷹さんの晩年は、上賀茂に帰り別荘を作り、庭内社には柿本人麻呂を祀り、歌仙堂をつくり雲錦亭と名付けられ、吉野の桜や立田の紅葉を愛でられ移し植え、庭をつくり、現在もその木があるそうです。そして歌人や文化人を呼び、教え楽しみ豊かな人生を送られ90才で亡くなられたそうです。 そしてその頃愛でられた紅葉の名をとって紅葉音頭と名付けられたのか、秋の豊作を喜び紅葉の名をつけられたのかは疑問です。

季鷹さんの書は金閣寺に今も『季鷹の書』と呼ばれ残っているそうです。このような歌人であり文化人が居られたことが上賀茂に郷土芸能として残り伝えられているのだと思いますと共に、上賀茂が音頭の元祖だと思います。

終戦後中断しておりました音頭が、上賀茂の長老の杜下長三郎さんは賀茂の伝統文化の理解と保存に尽力され、何度も文化庁に足を運び、郷土芸能無形文化財としての許可を得られ、昭和58年に登録されるようになり現在に至っております。 昨今のこのような文化運動が全国に起こって居ります折から、紅葉音頭保存会の方々がこの音頭に力を入れて下さる事は、上賀茂の文化の元祖として残るものと感謝して、話を終わらせて頂きます。

これはあくまでも私見でございますので、誤った点も多々ある事と思いますのでよろしくご理解下さいませ。 かえる時に質問などございましたら、お答えはできることはさせていただきます。

(拍手) 成田さん、どうもありがとうございました。

では引き続き、紅葉音頭集の中の一曲、先ほど歌っていただきました『近江八景』を小学生の皆さんにもわかるように、解説して頂きます。では高橋さん、よろしくお願いいたします。


紅葉音頭 『 近江八景 』
高橋と申します.どうぞ宜しくお願い致します。冊子のこちら4ページのほう、お開き下さい。今日は。紅葉音頭保存会の方に集まって頂いて、貴重な踊りやお歌、体験させて頂き、ありがとうございます。 近江八景に関しましては.小学生の子供達が分かり易いように歌詞を解説 するという趣旨で、時々変な話とか出るかもしれませんが、宜しくお願 いします。

じゃあ、子供達、これを開いて下さい、4ページです。先ず近江八景 という題名なんですが、これは近江の国。近江の国は今の滋賀県の 昔の呼ぴ方です。近江の国の美しい景色、八つの美しい景色を表わ しています。

もともと近江八景は、室町時代にお坊さんが、あそこ は、近江・滋賀県はいいところだと選んでいたんですけれども、今 から400年位前に後陽成天皇、第107代の後陽成天皇かお決めに なられまして、それから近江八景として定着し今に至ってます。

近江八景の具休的な内容は歌詞を説明しながら言うことにしましてで すね、まずはこの歌詞の大まかな意味なんですけれども、簡単に言って しまうと『恋の歌』という感じです。主人公の男性が、滋賀県の近江のい ろんな名所を歩いたり、あるいは思い出しながら好きな女性に会いに行く。と、 それで好きな女性に会うんですげども、会ってるときは本当にすてきな時問を過ごしてるんですが、やはり別れの後はすごくさみしい。それで、別れてしまうとやっばりさみしいなあと嘆く。そういうふうな歌詞ですね。

で.まあ小学生のみんなも、やはり残る歌というのは恋の歌というのが多いですね。やはり今はやってる歌というのもモーニング娘とか宇多田ヒカル、あるいは嵐、あゆ、安室奈美江 そういう人達の歌っていうのもやはり売れてるのは恋の歌だと。この近江八景もほんとにいろんな名所や歴史を読み込みながら.恋の歌を歌っているという。とてもこれは、もう雅やかな、先程成田さんもおっしゃってましたけれども、とても雅やかな歌で今に伝わってると。

それではですね.実際に歌詞なんですけども、先程歌って頂きましたけれども 『 おりおりの〜 ながめにあかぬ びわのうみ 』 これは七・五調といって、昔は今とちょっと違って、音を七と五で合わせるととても響きが良い言いと。だから音を七と五で合わぜるのは好きだったというか、雅というか、それで昔の歌は語調を合わせています。今の歌と違うけども。

そして『 ながめもあかぬ ぴわのうみ なみもをとせぬ みよなれや 』今、波も音のしない平和な世の中です、と。 『 まづうちいでの はますぎて あわづのもりや かげろうの 』 はい、ここで近江八景の1つ「 粟津の晴嵐 」というのが出てきます。

ちょっと書かせて頂きます。これは琵琶湖です。みんな琵琶湖行ったことある人?小学生、いるかな? はい、これ琵琶湖ですね。まず最初にここの棄津で「粟津の晴嵐」というのか出てきます。晴嵐というのは森とか並木が茂っていて強い風が吹くと.ザワザワッとすごい音がして嵐の様になると。
ザワザワ〜っと強い風が吹くと雨が降った様に音がする。晴れてるのに雨が降った様に音がするので晴嵐といいます。だから.晴嵐っていろいろ観光名所行くと出てきますけれどもそれは緑が一杯のところと思ってくれたらいいです。先ず「粟津の晴嵐」が出てきました。そして続きます。

3行目、『 はかなくきえし よしなかの よしやうきよの くもばれて 』 ええ、義仲というのは、木曽義仲といって、平安時代の終に平家が京都の町を治めていたんですが、乱暴狼籍が多かったんで、木曽義仲という人が平家を追い出した、と。でも木曽義仲という人も無器用な人で.なかなか京都の人に溶け込めなくてですね、ちょっとこう嫌に思われてしまって、結局源義経という人に討ち取られました。それが打出の浜で討ち取られたので、こういう歴史的なものをいれてるんですね。

そして 『 むこうすずりの いしやまや かきつらねたる ふでのあと 』 はい、ここで第二の「
石山の秋月 」が出てきます。 石山は昔から秋の月が美しいと言われています。ここが.あの石山、が出てきます。

かきつらねたるふでのあと ひかるげんじの ものがたり わかむらさきの なにしをう すまやあかしの うらまでも こころにうかぶ あまをぶね 』 石山というとですね、有名なのが紫式部。平安時代の女流作家、女流の文学者ですね。紫式部が何を書いたか分かる人? 小学生でちょっと教えてくれるかな? 何害いたのかな? 紫式部という女流文学者。何て物語を書いたのかな?わかる人。はい。「(小学生)源氏物諸」はい、そうだね。「源氏物語」ですね。

紫式部は石山寺で「源氏物語」を書いたといわれています。特に書いた巻は「須磨の巻」とか「明石の巻」ですね。そうしたら光源氏というのは「源氏物語」の主人公で、若紫というのは「源氏物語」の理想の女性ですね。ちなみに光源氏というと、僕が学生時代に、ジャニズ事務所ですごく売り出していて、人気のあるグルプがあったということは、皆も知っといてくれてもいいと思います。今はSMAPとかね。今何かな?ジャニーズ事務所て売れてる人だれかな?何かな?分かる人?ほかの方でも宜しいですよ。お母さん方でも官しいですよ。「(母)嵐」あ、嵐ですか。今ほら、ジャニズ事務所で嵐ってのが売れてるんだね。そして僕の学生時代は光源氏と。ジャニーズ事務所は、侮れないのは結構雅やかな題名とか付けたりしてる。

そして次 『 こころにうかぶ あまをぶね まののいりえに こぎよせて つなでやさしき いとすすき をばながそえの つゆふかく 』 はい。真野の入江は今真野湖水浴場になってます。大津市真野が浜の河口。をばなはすすきのことです。

てるつきなみを かぞうれぱ こよいはあきの もなかとて さえわたりたる せたのはし むこうはるかに みかみやま 』 はい。ここで三番自の近江八景出てきます。「
瀬田の夕昭 」 瀬田は、音から溝田の唐橋というのが有名で、「瀬田の唐橋を制するものは、天下を制す」というぐらいに大事な橋だったんだね。だから何度も何度も瀬田の唐橋というところで戦いが行なわれ、ここで破れたら都の京都を取られてしまうという、そういう橋でした。特にその瀬田の唐橋は夕暮れ時とても美しいと。それで「瀬田の夕照」が美しいものの1つに数えられました。はい、また続きます。

いにしえここに ゆみとりの はなつやばせの わたしもり くものうきなみ たつとみて 』 ここで「
矢走の帰帆 」が出てきます。矢走の帰帆、矢走というのは港町で、今の草津市ですけども、港に帆を張った船が帰ってくると、港に船が出入りする風情がすごく美しい。

ちなみに草津というのはここなんですけども、津というのは昔の日本語で、津と書いてあったら全部ね、大体港町だと思って下さい。例えば大津も琵琶湖の港町でしたし、三重県の津市も港町。あと今津、室津、これみんな港町てす。草津は港町でした。

かへるかたたに おつるかり つばさにかけし たまづさに 』 はい、ここで「
堅田の落雁 」が出てくると。堅田というのは大津市の北部、堅田地区。そこに降り立つ雁がとても美しい。それで堅田の落雁が有名 になりました。

その後『 いかなるなさけや こもるらん ひらのたかわの ゆきよりも 』 ここでまた近江八景「
比良の暮雪 」が出てきました。比良の山があって、そこに雪が積もり、それが美しいと。タ暮れ時に美しいと。「比良の暮雪」。

こいしきひとを みいでらの ゆうべをつぐる かねのねに かよいくるわの かけあんど 』 ここでまず三井寺が出てきて「
三井の晩鐘 」 近江八景の三井の晩鐘が出てきました。三井寺は大津市比叡山延暦寺。三井寺といったらものすごく有名な寺なんですけども、三井寺は昔から夜を告げるかね、晩鐘、暮の鐘が響きがとても風情があると。それで有名でした。

そしてですね.最後の近江八景。八つめなんですが、これは地名が書かれてないんです。昔の古典の約束事が分かっていたらですね、左から.1.2.3.4.5.5行目見て頂けたら、 『 みおくりて ひとりたちたる まつがえの かわらぬみさを・・・』 はい、この「ひとりたちたるまつ」「唐崎の松」というのが有名で、一本だけすてきな松が立ってたところなんですけども。

唐崎の松から、これは「
唐崎の夜雨 」を表わしてるんだな、と類推できます。唐崎はこのへんですね。堅田・唐崎はこのへんてす。これで八つ出てきたわけです。

だから子供達に知ってもらいたいのは、昔の歌は奥深く、わざとこう、名所や歴史をちりぱめて、それを味わってもらうと。恋のうたでも、それが風情があると昔の人は考えてたわけです。

はい、それでは何か質問はございますでしょうか?

「(質問)あの、真ん中あたりに 『 いにしえここに ゆみとりの はなつやばせの・・・』とありますよね。これは昔ここで合戦があったか、それとも弓の名人が・・・」

答: いろんな説があるんですが、瀬田や矢走のあたりは昔から戦が多かったですので、そういうのも重なってこういうように言ってたんだと思います。

「(司会)他にご質問がありましたら、この機会に。・・・そうしましたら高橋さんどうもありがとうございました。」(拍手)


紅葉音頭の衣装 踊ったり歌ったりする前に、皆さん注目して頂げますか?俣存会の皆さん、とっても素適なお着物を着られているんですけれども、どういった感じかちょっと説明をお願い致します。皆さん見て下さい。

普段は紺の着物ということですが、踊りをされるときは紺の着物ですか?
「普段は紺の着物を着ていたかどうかは定かではございませんが、この紅葉音頭の衣装は、御所で女官達が優雅に装い踊られていたという昔語りから、上賀茂の里人が大切にして着ていたという紺の着物に美しい腰紐をし、その上に縫いをほどこした身幅前掛けをつけられた姿こそ当時の女性達の正装であり、一番のおしゃれであったと伝えられています。その衣装を再現してつくられたのだと思います。


踊りの時はピンクのたすきを掛け、白足袋に赤い鼻緒の草履を履きます。」

三幅前掛というのは、特殊なもののように恩いますけど、三幅というのはどういうごとですか?

「着物の反物の幅を小幅(約35cm)と呼びます。それを前掛けの丈、約55〜57cmの寸法に裁断し、三枚並べて隣りあった耳のところを丈の3分の2位まで千鳥がけでつなぎます。その上に紐をつけて前掛けにしてあります。小幅を3枚使っているところから三幅と呼ばれています。三幅前掛けには紺地に縫をしたもの以外に久留米かすりや伊予かすり、能登上布(麻)などが使われています。」

ぐるっと回っていただけますか?
こういうのが3枚あるそうです。 「ほいで、三幅の前掛けって」

この赤と自の紐が結んであるのは何ですか?
「これは帯や帯揚げ・帯締等の役目をしています。紅葉音頭の衣装は赤と白ですが、この腰紐や前掛けの紐は友禅や古典調の図柄の綸子やちりめんの布を使うなどして、個性に合わせたものが用いられました。」

三幅前掛けに、すてきな歌が書かれてあるんですがこれは何ですか?
「紅葉音頭にちなみ『紅葉の錦 神のまにまに』のお歌が刺繍されています。この歌は古今集・百人一首にあります菅原道真公(845〜903)のお歌で

『此の度は幣も取あへず 手向山  紅葉のにしき 神のまにまに』 意味は、『今回の旅は急な事なので、幣(ぬさ:お供え物)の用意もできませんでしたが、この峠の美しい紅葉を幣としてささげますので、神よ御心のままにお受け取りください』というこの歌の下の句が用いられています。」

この、肩に掛けておられる日本手拭みたいなのは何でしょうか?
「この日本手拭は紅葉音頭にちなみまして、川面に浮かぶ紅葉を写した手拭を姉さん被りにし、その上にかんざしをさします。今日は襟元にまいております。」

ちょっとかぶせにきてもらえますか?姉さんかぶりです。
「ほな、かぶせたげよ」「え、私が?」 皆さん、後でお帰りになるときに、ここの机の上に置いてある写真を見て頂きたいんです。随分昔に司会者で宮田てるさんという方がいらっしゃったんですけれども、その人の司会でテレビの取材が来られた時がありまして、その時の写真が残っております。その時は皆さん大勢、姉さんかぷりをした姿が残っております。

「難しいなあ、これ。(笑)」 はい、花嫁さまの様になりました。これが紅葉昔頭の正装です。一回りお願い致します。
(拍手)

それでは、子供達は手に持ってる荷物置いて、一緒に踊ろう。はい、皆立って。荷物は皆上において。 保存会の皆さんは前に来て頂けますでしょうか。音頭の方は前に来て頂いて、踊りの方は真ん中で丸くなって子供達や他の大人たちも混ざって一緒に踊って頂きたいと思います。



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