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伏見義民の史跡を訪ねる
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1 御香宮の「義民の碑」 2大黒寺の「遺髪塔」 3焼塩屋権兵衛の碑 4 丸屋九兵衛の碑  5 陽岳寺
1 御香宮の「義民の碑」
 

御香宮神社内「伏見義民の碑」この碑は

門を入ったすぐ西側に建立されてます。

京阪「伏見桃山」」近鉄「桃山御陵前」下車
東へ御香宮境内

 茶道遠州流の祖、伏見奉行小堀遠江守政一から六代目の和泉守政方が、安永六年伏見奉行に任ぜられた。
 最初は善政を施して伏見町民から悦ばれたが、やがて側近の奸臣に身を誤られ、乱行日に甚しく重税、重罪を課して暴虐その極に達した。ここに町年寄文珠九助等同志七名、敢然起つて幕府の要路に直訴せんことを画策した。一身一家を抛紬ち、数年に亘る惨憺たる苦心の末、初志終に貫徹され、天明五年十二月政方は罷免され、住民漸く塗炭の苦しみから救はれたが、同志の内二人は事件の落着を見ずして江戸の客舎に病死し、他は全員京都町奉行所で牢死した。
 全町民のため筆舌に尽せない労苦を重ね、文字通り死を以てこれに当つた尊い義挙も、世の変遷と共に空しく朽ち果つべきを憂へ明治二十年、百年祭を機に同憂の士相議り、その遺徳を顕彰し永く後世に伝へんものと、この記念碑を建設した。因みに、「伏見義民碑」の題字は三条実美の書で、その碑文は勝海舟の撰文に書である。(伏見桃山御香宮略記)より
「伏見義民の碑」に刻まれた勝海舟の碑文(口語訳)

 【江戸時代の後期】天年間【西暦では17811788年】、ここ伏治め奉行は身分に思い上がって勝手気ままにふるまい、私利欲があざといものだから、冷酷なやひねくれたたちまでが幸いと私利私欲の風潮を助長するありさまで、思いもよらぬほど脈をきわめた。

住民は生計をたてることもできなくなり、その悲嘆は深い霧のように心を覆って、払いのける手だても見つからぬ絶望にあえいでいた。

、文、聡明にして誠実な、思慮分別のある人であった。住民みんなのなら身にふりかかる禍(わざわい)などかまうものかと、を同じくする友、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、柴屋伊兵衛、焼塩屋権兵衛、板屋市右衛門、伏見屋清左衛門などとひそかに協議を重ねた末心を一つにし、はかりしれぬほどの気苦に耐えて、幾度となくの幕府に出かけて、伏見町民の悲嘆を直訴したのであった。

そのようにして遂に、真心を貫いた報いを得た。呉竹の伏見の人ために正義が生きる道を切り開いたのだ。人々の苦難と災厄をぞく見通しがついたのだった。かし事の成就、伝兵衛は、九八年兵衛正月二十三日で、露のようにこの世から消え去った。

、かの人たちの没江戸から遠く離れた伏里によせる慕情は強く、かの人たちの正義の行動に鼓舞される思いで、百年という歳月もまるで一日のように感じられる。ここにかの人たちの霊(たま)祀り、勲功を後世にえようと思う。

ああ、昔、オニイバラやモギの類は、とりわけ繁茂しやすいものだ。のような人々は、荒草を刈りつくす鋭利な鎌といえるのではないか。

明治20年 月 日   海舟散人誌

(勝海舟 江戸末期・明治の幕臣、政治家)

(口語訳・【 】の説明は文珠九助の会

伏見義民之碑」に刻まれた勝海舟の碑文
(原文・御香宮神社資料より)

 
(注・碑文には句読点はありませんが、読みやすいように御香宮資料のまま句読点をくわえました。)

連絡先 そうぞう館 (075-647-0048) 劇団京芸(075-631-2609)