新しい皮袋 第九号
「 みこころに生きる 」
(祈り)「天の父よ。あなたのみこころがこの身に成りますように。」
(目標)「神様のみこころと一致して、自由に幸せに生きる。」
“すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。” ロ−マ11:36
序
夜空に満天の星。日本の技術の粋を集めて、ハワイのマウナケア山頂に作られた天体望遠鏡「すばる」から送られてくる星空の映像。もう気が狂いそうになるほど溢れかえる星の密集。思わず、神様に聞きたくなります。
「神様、こんなに星をお造りになる必要があったんですか。何の目的でこんなに造られたんですか。無意味ではありませんか。」
やっぱり無意味じゃないんですね。
“目を高く上げて、誰がこれらを創造したかを見よ。
この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つその名をもって呼ばれる。
この方は、勢力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは私の神に見過ごしにされている。」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく。たゆむことなく、その英知は計り知れない。”
イザヤ40:26〜28
神様は本当に私のことを知っておられるのか。日常生活にまで関心を持っておられ、御目的・御計画を持っておられるのか。疑わしくなったら夜空を見ましょう。そして、星の「数えられなさ。」で安心しましょう。確信しましょう。「大丈夫。間違いない。」と。
T
「失望に終わらない希望」は、神様への信頼から生まれます。(第八号)
そして更に、神様の御目的・御計画を知り、神様のみこころ(御意志)と一致して生きていく時、揺るぎないものとなります。
※「縁」という言葉がありますね。「袖ふれ合うのも、多少の縁。」
一人一人の出会いと展開の不思議さ。みんな違います。みんな自分の意志を 超えています。そして死も。まさに最後の最後まで分かりません。全てが人知を超えています。だから、それに「縁」という言葉を当てる訳です。
でも、この「縁」には欠けているものがあります。目的と計画です。だから、「良縁」「悪縁」という分け方が出てきます。「縁」は、必ずしも希望に結びつかないからです。場合によっては、絶望に結びつくからです。それで、「縁を切る。」という言葉も必要になってしまう訳ですね。
神様の人間に対する御目的・御計画には絶望はありません。失望に終わらない希望しかありません。
「世の終わり」という言葉も、神様の御目的・御計画と結びついていないと、絶望的な理解しか出てきません。実は、聖書が預言している「終わり」とは「神様による完成」なのです。
“それから終わりが来ます。その時、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。”
Tコリント15:24
でも私達の心には、「神様の御目的・御計画を知り、神様のみこころと一致して生きるのは、きっと幸せだろうな。」と思う反面、「でも、それでは自分のしたいことが出来なくなるのではないか。」という思いもあります。神様に従いたくないという思いです。
U
神様は、私達を神様のみこころに生きるために造られました。最初の人間、アダムとエバが罪を犯すまで、神様のみこころは単純でした。「善悪の知識の木から取って食べてはならない。」(創世記2:16~17)これだけが人間として守る分でした。この人間の分を超えない限り、人間は何をしてもよかったのです。
でも、罪を犯して人間の分を超えてしまった後、人間は、神様からきめ細かな指示を必要とするようになりました。聖書の存在がそれです。
“主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでもなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
エレミヤ10:23
これは、私達の歩むべき道、歩み方、歩みに必要な知恵と力は、神様からその都度、導かれ、教えられ、与えられる、ということです。
神様はみこころを、言葉だけでなくあるゆる方法で私達の知性に伝え、私達の自由意志に働きかけて示して下さいます。
しかし、神様がどんなに私達の自由意志に働きかけて下さっても、その神様のみこころに対し、私達がどういう判断を選択を決断を行動をするかは、あくまで私達の自由意志にかかっています。
もし、私達が神様のみこころに対し、自由意志をもって、自分の心を一致させるなら、こうなります。
“神は、みこころのままにあなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。”
ピリピ3:13
“神はあまねく全地を見渡し、その心が御自分と全くひとつになっている人々に御力を現わしてくださるのです。
T歴代誌16:9
V
ところが、私達はこの自由意志をもって、神様の元を離れ、迷子になってしまいました。的外れの人間になってしまいました。
“私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。”
イザヤ53:6
迷子で、的外れな人間となった私たちは、神様のみこころを知っても、そのみこころに自分のこころを一致させることが出来なくなりました。神様のみこころより自分の思い・願い・欲望を満足させたいという心になってしまったからです。
当然、神様の御目的・御計画も認めたくなくなりました。自分の目的を作り、自分の計画を立てるようになりました。
そのため私達は、未来に不安を覚える時は、縁起をかついだり、何かを拝んだり、祈願したりして、気持ちを落ち着かせるしか方法がなくなりました。その代わり、私たちは、すべてのことを自分の自由意志で決める自己満足を味わうようになりました。
「先ず信仰でなく、先ず努力。」が正しいのだ、と考えるようになりました。「神様なんかいない。」と考える人もいますが、「いらっしゃる。」と考える多くの人も、「神様という方は、先ず努力する人を報われる。」と考えるようになりました。「努力して神様に評価される人が、神様を信じる資格を認められる。」と考えるようになりました。 それで殆どの人が、「人事を尽くして、天命を待つ。」「天は、自ら助くる者を助く。」という言葉を金科玉条・座右のことばとして、人の評価・富・地位・名誉を生き甲斐に、努力する生涯を送るようになりました。本当は、「天命を知って、天命に従って、人事を尽くす。」だったのに・・・。
また、的外れな存在となった人間は、自由意志でどんな的外れの行為でも出来るようになりました。ここから、人間の罪による色々な悲劇が始まりました。
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でも、神様は、人間がどんなに的外れなことをしても、人間の自由意志による判断・選択・決断・行動を尊重されます。神様は決して私たちの意志を強制したり、曲げたりなさいません。
※アダムとエバの最初の子供である兄カインが、弟アベルをねたみ憎み怒った時、神様はカインの自由意志に、次のようにみこころを伝えられました。
“なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。”
創世記4:6〜7
でも、カインは自由意志をもって、この神様のみこころを無視し、アベルを殺すという決断をし、行動しました。その決断と行動に対し、神様はカインの自由意志を尊重されました。
ヒットラ−の自由意志によるユダヤ人虐殺行為も、カインと同じです。 こんなに重い真理があるでしょうか!
その代わり、その人の自由意志の行為の責任は、全部その人にあります。一点の責任も、神様にはありません。それが「自由意志の尊厳」です。
※イエス様の弟子であった、ペテロとイスカリオテのユダは、共に自由意志でイエス様を裏切りましたが、イエス様は、彼らの自由意志による行動にはタッチされませんでした。しかし、御自分がそのことをすでに知っておられることを予告するという方法で、彼らの自由意志に働きかけられました。
恐らく、予告することで彼らに、「悔い改め」という自由意志による行動のチャンスを与えられたのではないでしょうか。
イスカリオテのユダは悔い改めませんでしたが、ペテロは悔い改めました。
神様から死を宣告されたヒゼキヤ王が、涙の祈りによって、寿命を15年延長されたように、ユダも悔い改めたならその罪は赦されたのです。
“それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目覚めてそのわなを逃れることもあるでしょう”
テモテ2:26
※エジプトを脱出するイスラエル民族を、怒りをもって何度も阻んだエジプトの王パロについて、聖書は何度も、「主は、パロの心をかたくなにされた。」と記しています。これは、神様がパロの自由意志を、強制的に「頑なな意志」にされた、ということではありません。「パロが自分から進んで頑なになるような状態に直面させられた。」ということです。
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自由に生きるとは、ただ、自分の自由意志で生きることだけではありません。幸せに生きるとは、自己満足に生きることではありません。
「幸せな自由」とは、神様のみこころを心から行ないたい自分になることです。その上で、自分のしたいことを自由にすることです。自分のしたくないことを自由にしないことです。幸せな自由」とは、自分の歩むべき未知を迷いなく歩めることです。正しい歩み方を知って歩めることです。自分の分の歩み(人生)につぶやきも疑いも持たずに歩めることです。
「幸せな自由」とは、道が分からなくなったら、神様に聞いて、願って、導いて頂けることです。歩み方が気になったら、神様に聞いて、願って、教えて頂けることです。
フラフラしてきたら、神様に聞いて、願って、知恵と力を受けられることです。
もし、私達が神様を主人にして生きるなら、たとえ理解を超えたひどい災いを体験することがあっても、変わることなく、神様の栄光と私達の祝福に至る神様の御目的・御計画があることを信じ、体験出来ることでしょう。
※ヨブという人は、その時代に一番正しく生きながら、最悪の災いを受け続けました。しかし、彼は信仰によって神様に向かい、その結果、誰よりも神様に近づき、神様のみこころにふれ、その時代に一番深く、神様を恐れる謙遜な人になりました。
これがヨブの最終告白です。
“あなたには全てが出来ること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを私は知りました。知識もなくて、摂理をおおいかくした者は誰でしょう。それで、私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。”
ヨブ42:2、3、6
E
どうすれば、再び自己中心から神様主人に変われるのか。自分では出来ません。
自分が出来ることは、自分を救える救い主を信じ、救い主に自分をゆだねることです。
そのために、父なる神様は、ひとり子イエス様に、私達の罪と罪の自分を引き受けさせ、イエス様を十字架につけて死に至らせ、三日目に復活させられました。この時、御父は、御子と共に罪の自分をも死に至らせ、復活させられました。ですから、誰でも罪を認め、イエス様を信じてイエス様の中に入るなら、罪の赦しを体験します。
イエス様に自分を委ねるなら、『イエス様が主人として内に生きて下さる本来の私』の誕生を体験します。
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”
ガラテヤ2:20
※アブラハム・リンカ−ンは、イエス様を主人とした人でした。以下は彼の証です。
「私は、自分の意志以外の力に左右されたことが余りにも度々あるので、私は、確かにこの力が神から来たものだということを、疑えないのです。私は、自分が取るべき途はこれだとはっきりと決定した瞬間、一体どうして、どういう理由で自分はそう決めたのか分からないことに気づく事が度々ありました。全能の神が私にあることをするように、またはしないように臨まれる時、神は特別な方法でそれを知らせて下さったのです。私が神に相 談している間に、私の心が軽くなるのを感じる時は、決まって上からの道を示されたのです。」