新しい皮袋 第39号
「寛容 と 妥協」
猶原 宏(記)
イエス様にないもの、それは妥協でした。
“神の子キリスト・イエスは、「ハイ」と同時に「イイエ」であるような方ではありません。
この方には「ハイ」だけがあるのです。“ Uコリント1:19〜20
序
不正と、妥協と、どちらが危険か? 答えはこうなります。
「不正をしても、まだ元に戻れます。でも、妥協したら元に戻るのは難しい。」
どうしてか?聖書が教える事実はこうです。
人間が神様に背を向け、神様と断絶し、代わりに自分が心の王座について手に入れたもの、それは「善悪の知識」つまり、「不正を不正と知る(認める)能力」でした。
このため人間は、神様を恐れずに、不正と知っていながら不正を行なうようになりましたが、同時に、不正を不正と認めて謝罪する事が出来るので、再び神様の元に戻り、本来の人間に戻ることが出来る機会も残されました。
ところが、妥協というのは、(たとえ、便宜上の手段だ、と言い訳しても)不正を不正と知っていながら正当と認めることです。不正を正当と認めること自体、神様に対する越権であり、不正を不正と認めて謝罪する機会を自ら閉ざすことになります。結局、自ら神様の元に戻る可能性を閉ざす訳です。
T
イエス様は、不正を行なう人間に対しては、心の中では怒っても、心の外すなわち言葉と行動では怒られません。それは、イエス様が愛だからです。
“愛は寛容です。” Tコリント13:4
寛容とは、怒りを心の中に留め、言葉と行動に出ないよう忍耐することです。人間が不正を行なうと、必然的に、聖く義しい神様のお心から怒りが引き出されます。でも、愛が怒りを心の中に留め、言葉と行動に出ないようにされます。 聖書から二つの例を上げておきます。
“イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。“ マルコ3:1〜5
“さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子供達をみもとに連れて来た。ところが弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子供達を、わたしの所に来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」“ マルコ10:13〜15
さらに、聖書は、愛についてこう教えます。
“愛は、不正を喜ばず、真理を喜びます。”
Tコリント13:6
愛は不正を喜びません。愛は不正を悲しみます。ですから、私達が不正を行なうと、イエス様のお心の中には怒りと共に悲しみも生まれます。不正を行なう人に対して、イエス様のお心は怒りと悲しみで一杯になります。一例を上げます。
“マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧下さい。」イエスは、涙を流された。“ ヨハネ11:33〜35
この時、イエス様のお心の中に、マリヤの兄弟(ラザロ)の死に対する悲しみ、それを利用してマリヤを誘惑する悪魔に対する怒り、その悪魔の誘惑に負けて不信仰になり、イエス様を責めて自分で自分の心を暗くしているマリヤに対する怒りと悲しみ、があふれました。それが、憤りと心の動揺と涙の中身です。
U
しかし、イエス様は、妥協する人に対しては、心の中だけでなく、言葉と行動でも怒られました。 典型的事件をあげます。
“ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが座っているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」”
ヨハネ2:13〜16
神殿で商売をしていた人達に対して、イエス様は心の中で怒られただけではなく、言葉と行動でも怒られました。しかも、この時のイエス様の怒りの何というすさまじさ!
一体、どうしてイエス様は、言葉と行動でこんなに激しく怒られたのか?
礼拝を利用して金儲けをするのは神様を冒涜する不正です。もし、彼らが神冒涜という不正を不正と知って行なっていただけなら、イエス様は、心の中では怒り、悲しまれても、言葉と行動で怒ることはなかったでしょう。丁度、伝道者パウロが、多神教の町アテネで偶像の乱立を見て、心の中に憤りを禁じ得なかったように。
事実、イエス様は、神様を冒涜する人に関しては、このように明確に教えておられます。
“わたしはあなたがたに言います。人は、どんな罪も、冒涜も、赦して頂けます。すなわち、人の子(イエス様)を冒涜する者でも赦されます。“ マタイ12:31〜32
では、一体どうしてイエス様はこんなに怒られたのか?
それは、彼らが、自分たちのしていることが不正であることを知っていながら不正をしていただけでなく、その不正を(便宜上)正当と認めて行動していたからです。妥協していたからです。だからイエス様は言葉と行動で怒られたのです。
不正を不正と知りながら行なうのは妥協ではありません。又、不正を不正と少しも思わず、むしろ正当だと思って行なうのも妥協ではありません。しかし、不正を不正と知りながらも、(便宜上)正当と認めて行なうなら、それは妥協です。
◎ですから、イエス様を主人とするクリスチャンも、誰かが、不正と知りながらであれ、正当だと思ってであれ、主人であるイエス様を冒涜した場合、その人に対し心の中では怒り悲しみながらも、言葉と行動では決して怒るべきではありません。
この点が、イエス様の教えとイスラムの教えとの違いです。イスラム教徒達は、アッラー(神)を冒涜する人々を、心の中で激しく怒るだけでなく、言葉と行動でも激しく怒ります。アッラーだけでなく、預言者ムハンマドを冒涜することをも、経典コーランを冒涜することでさえも、アッラーを冒涜するのと同じ冒涜だと感じて、言葉と行動で激しく怒ります。
※少し前、デンマークの新聞に掲載されたムハンマドの諷刺漫画に、世界中のイスラム教徒達が、怒って激しい抗議行動をしたことは、まだ記憶に新しいことでしょう。
※つい60年程前殆どの日本人が、天皇を冒涜する人々だけではなく、天皇の写真(御真影)や天皇の教え(教育勅語)を無視する人々でさえも、天皇を冒涜するのと同じだと感じて、言葉と行動で激しく怒り、弾劾しました。
※日本の武士道も同じです。主君が冒涜されたら、家臣たちは激しく怒り、主君の無念を晴らすため、主君を冒涜した人々に対し、自分たちの命を賭けてその怒りを行動に表わしました。「忠臣蔵」はまさにその典型でしょう。
V
イエス様は、妥協する人々に対しては、言葉と行動で激しく怒りましたが、決して彼らを憎んだのではありません。怒りと憎しみは別のものです。怒りは愛の心から出ますが、憎しみは愛の心から出ません。不正そのもの、妥協そのものに対しては義の心から憎しみが出るのは当然です。でも、不正であれ、妥協であれ、それを行なう人に対して憎しみが出るとしたら、それは、義の心からでも愛の心からでもなく、間違いなく愛の無い心からです。
“怒っても、罪を犯しては(憎んでは)なりません。” エペソ5:26
この世は、誰かを愛し誰かを憎んでも、誰もおかしいと思いません。普通だと思います。それが人生だ、と。この事実こそ、この世が的外れである決定的証拠です。
“光の中にいると言いながら、兄弟(人間)を憎んでいる者は、今もなお、闇の中にいるのです。兄弟(人間)を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。闇が彼の目を見えなくしたからです。兄弟(人間)を憎む者は皆、人殺しです。いうまでもなく、誰でも人を殺す者の内に永遠の命が留まっていることはないのです。“
Tヨハネ2:9,11,3:15
とは言え、私達は、加害者の不正によって愛する者の命や健康を奪われ、悲しみ、絶望し、うつになり、生を呪っている被害者達の気持が分かります。彼らは、加害者の不正だけでなく、加害者自身をどれほど憎んでいることでしょう。加害者に対して、ひたすら極刑(死刑)を望みます。心にあるのは加害者への怒りと悲しみではありません。怒りと憎しみです。同じ目に会わせてやりたい、という恨みと復讐心です。
胸が痛くなるほど分かります。だから、「懲役十数年」などという判決が出ると、もう被害者と一緒に、くやしさ、怒りに腹の底から煮えくり返ります。どんなに精進したって自分の心から寛容など出てこないことを認めざるを得ません。
それでも一つ、認めざるを得ない事実があります。それは、どんなに加害者を憎み、復讐心を持つのは当然だと正当化しても、被害者達の心も、被害者達に共感する私たちの心も、決して明るくはならない、暗いままである、という事実です。恨みが晴れても、光が射し込んで来るわけではない、という事実です。どうしてでしょうか?
愛さない自分が生きるだけだからです。愛さない自分が生きていく限り、憎む自分が生きていく限り、闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのか分からないからです。
これでは、まだ人生の本当の解決にはなりません。
W
古今東西、「救い主」と呼ばれた人々の中で、自分を憎み、迫害し、殺す敵を真に愛し、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです。」と、彼らの赦しを天の父に願い求め、実際に彼らの赦しの実現のために自分を彼らの罪の身代わりにされた救い主は、イエス様だけです。私達の罪が赦される方法は、この救い主を信じるだけです。又、自分の心が愛のない心から愛のある心になる方法は、自分が心の王座を降りてイエス様を自分の主人として心の王座にお迎えし、以後自分は主人イエス様の命令に従うしもべになる、という方法だけです。
◎イエス様のしもべとなり切った人だけが、心の中に加害者への憎しみを持たず、ただ怒りと悲しみだけを持てます。事実、そのように生きて地上を去った人が、歴史上何人もいたことが、クリスチャンの大きな励ましであり、誇りです。
※孫良源という韓国人は、その中でも突出したクリスチャンでした。彼は、自分の愛する息子を射殺した青年を引き取って、自分の子供としたのです。そして、生涯彼を彼に殺された自分の息子同様に愛し、面倒を見ました。その行動は、当の青年にとっても彼の妻や娘の許容能力を超えていたため、長い間、彼らの心を病ませた程でした。
たとえ、加害者が、自分の不正を不正と知りながらも、あえて正当と認める妥協行動で、被害者たちを苦しめるとしても、イエス様のしもべとなり切った人は、一時は言葉と行動で怒りを爆発させることは止められなくても、最終的には、主人の命令である「裁きは神様に任せなさい。」に従って、怒りに終止符を打つことが出来るのです。
“日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。”
エペソ4:26
<幾つかの問題の核心>
如何なる理由があろうと、他国を侵略・破壊、住民を死傷させる戦争は不正です。この点で、無罪の歴史を持つ国は無いでしょう。もし、不正を不正と認めて謝罪するなら、まだ国も国民(個人)も元に戻れます。でも、もし不正を不正と知りながら、(便宜上)正当と認めるなら、すなわち妥協するなら、元に戻るのは至難の業となります。
@米国が原爆を市民の上に落として無差別に殺戮したことは、明かに不正です。もし、不正を不正と認めて謝罪したなら、米国はまだ元に戻れました。でも、米国は、「戦争をやめさせるためには、やむを得ない選択だった。」と自己弁護し、不正と知りながら正当と認めました。妥協しました。そのために、元に戻るのはとても難しくなりました。
アウシュヴィッツを恐るべき罪と判断出来る米国人が、戦後60年経っても、「日本人・瞬間・無差別・大量殺戮の罪」を罪と感じることが出来ないのです。敬虔なクリスチャンで知られるカーター元大統領でさえ、被爆死者に対する負い目だけは未だに感じることが出来ないのです。
A米国キリスト教徒達が、「9・11同時多発テロ」の不正に対して、怒りと悲しみを心の中に覚えたのは当然です。
しかし、この時米国キリスト教徒達は先ず、「自分たちの国は、テロで復讐されるような不正を、他国に対してしたのではないか。もしそうなら、米国は、先ず他国に対してその不正を不正と認めて謝罪しなければならない。」と、謙虚に神様の前にひれ伏して神様に聴いたでしょうか?
次に、米国キリスト教徒達は、アルカイダ国際テロ組織が「同時多発テロ」という不正を、不正と知りながらしたとしても、不正と思わず心から正当と思ってしたとしても、少なくとも彼らには不正を正当と認める妥協など一点もなかったことを知るべきでした。彼らにあるのは唯聖戦意識です。ですから、米国キリスト教徒達だけは、彼らに対する怒りを心の中に留めておき、決して言葉と行動に表わすべきではありませんでした。
しかし、米国は、結局、アフガン戦争という行動で怒りを表わしました。この時、米国キリスト教徒達は、為政者に対し、「寛容であれ。」と反対の意志を表明したでしょうか?
しかし、米国キリスト教徒達は、積極的にこの戦争に賛成しました。彼らも心の中だけでなく、言葉と行動で怒りを表わしたのです。「でも憎しみはなかった。」と言うでしょうか?
※さらに、米国キリスト教徒達は、「攻撃される前に、攻撃するのは正しい。」と、イラクへの先制攻撃という明白な不正を、不正と知りながら正当と認めてしまいました。明かに妥協したのです。恐らく、元に戻るのは至難の業でしょう。
この妥協が、彼らのその後のイエス様との心の交わりに、どれほど影響を与えているか、良心にどれほど曇りを与えているか、私達への自戒としてよく見届けておきましょう。
やがて、イラクに大量破壊兵器は存在しなかったことが明かになったにも拘らず、戦争でフセイン以前より多くのイラク国民が死傷し続けているにも拘らず、逆にテロリストが一層増加・拡大するに至っているにも拘らず、米国キリスト教徒達の多くが、今もなおこの先制攻撃という不正を正当化している現実が、この妥協の恐るべき結果です。
※米国キリスト教徒達が、不正を行なう人に対して寛容な行動を取れなくなったのは、9・11からではありません。西欧のキリスト教徒達が、アメリカ先住民の土地に移住してきた時からです。彼らは、先住民の好意に感謝し、彼らの許しを得て謙虚にこの土地に寄留し、受けた恩を忘れずに先住民と共生共存の生活をすべきだったのです。
所が、彼らは「地上は寄留地である。」というイエス様の教えを忘れて、「この土地を神の国にする。米国は神の国である。」と、イエス様が教えてもいない名目を掲げて先住民を虐殺しました。
彼らが、先住民虐殺という明白な不正を、(便宜上)正当と認めた時から、妥協した時から、彼らは愛の寛容を失ったのです。長期の奴隷制度、南北戦争後も継続する人種差別、他国文化の蔑視、民主主義の名を用いた数と力による圧力、等の盲目を、抵抗無く教会の中にまでもたらしてしまっている事実が、それを物語っています。
※米国キリスト教徒達は、「個人に対する罪」関しては、イエス様の教えが万人に適用されることを認めます。(ただし、欧米白人に対する、彼ら以外の人種による罪に関しては、イエス様の教えは欧米白人には適用外とします。)しかし、「地上の神の国であるアメリカに対する罪(攻撃)」に関しては、新約聖書の基準は適用外とすることに、何の抵抗も躊躇もありません。これが、米国キリスト教独自の「ダブル・スタンダード(二重基準)」です。
欧米白人を除く万人にとっては、個人の敵に対しては、「あなたの敵を愛せよ。」が基準です。しかし、欧米白人と地上の神の国であるアメリカの敵に対しては、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め。」が基準なのです。
結局、米国は、主人イエス様の命令に従う神の国ではなく、星条旗と軍旗が一つの、「♪ゴッド・ブレス・アメリカ」を第二の国歌とする、キリスト教的市民宗教国家なのです。
主イエス様の基準が個人にも国にも適用される国、それが神の国です。その基準は唯一つ、「あなたの敵を愛せよ。」だけです。
結論
妥協だけでなく不正をも、言葉と行動で怒ることの出来る権威の持ち主は、神様だけです。その神様が今そうされないのは、忍耐と寛容の愛の故であり、人の救いのためです。
神様の忍耐と寛容が、ついに限界に達する時がやがて来ます。その時、イエス様が再臨され、先ず、イエス様を救い主と信じ頼っている人々を、全て神の国に復活させられます。
次に、不正を不正と知りながら、不正と認めて謝罪しなかった人々、また、不正を不正と知りながら、(便宜上)正当と認めて妥協した人々を、各々その行ないに応じて裁かれ、行ないに応じた刑罰を受ける判決が下されます、と新約聖書は預言しています。
最後に、その預言の言葉を記しておきます。皆さん、天国行きの切符を、イエス様から今の内に入手しておきましょう!
《ローマ1:28〜2:16》
“彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、そのようなことを行なえば死罪に当たる、という神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、一人々々に、その人の行ないに従って報いをお与えになります。神にはえこひいきなどはないからです。“
《Uペテロ3:9》
“主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”
《Tテモテ2:4》
“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。”
《使徒16:31》
“主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。”