新しい皮袋 第37号

「武器の使用について」

  猶原 宏(記)

ルカ22:35〜51、マタイ26:52〜54

 

イエスは、弟子たちに言われた。「今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、のない者は、着物を売って、を買いなさい。」彼らは言った。「主よ。ここにが二振りあります。」 イエスは、彼らに、「それで十分。」と言われた。

 

それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。イエスがまだ話をしておられるとき、イエスを捕らえようと群衆がやって来た。イエスの回りにいた者たちは、事のなりゆきを見て、「主よ。で打ちましょうか。」と言った。そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは、「ここまで!(ここからは)相手のなすがままにさせ

なさい。」と言われた。そして耳にさわって彼を直してやられた。

 

その時、イエスは言われた。

をもとに納めなさい。を取る者はみなで滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いて頂く事ができないとでも思うのですか。」

 

  現在の日本の国の憲法は、どう考えてもイエス様のこの教えを土台としている、としか考えられません。

 

《日本国憲法・前文の要旨》

日本国民は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、この憲法を確定する。日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。我らは、国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。

 

《日本国憲法 第二章「戦争の放棄」第9条の要旨》

日本国民は、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

非戦・武力放棄の憲法を持つ国は、中米コスタリカ日本キリストの王国だけでしょう。これは明かに国際社会で最も名誉ある地位です。

 

ですから、平和憲法を持つ戦後の日本人が国歌『君が代』を歌う時、

 

♪ (キリスト)が代は、千代に八千代(永遠)に、細(さざれ)石(ギリシャ語で「石」はペテロ=イエスを王とする一人々々をさす)の、巌(いわお)(ギリシャ語で「巌」はペトラ=キリストの王国をさす)となりて、苔の生(む)すまで

という『キリストの王国』の国歌を歌っているのでは・・・。

 

また、戦後の日本人が白地に赤の『日の丸国旗』を仰ぐ時、イエス様が、十字架の上で流された血によって実現した、義と平和の『キリストの王国』の国旗を仰いでいるのでは・・・。

本論

イエス様は、「武器を持つのは攻撃のためでも、防衛のためでもない。相手の心から攻撃心を無くさせ、相手に、攻撃殺人という罪を犯させないようにするためである。」と教えておられます。

 

1、イエス様は、堕落した今のこの世で、武器の所持を認めます。

 

今は剣の無い者は、着物を売って、剣を買いなさい。

 

でも、大量の武器の所持は認めません。「二振りの剣で十分である。

 

2、では、どうして武器の所持を許されたのでしょうか。

 

敵の先制攻撃に対する防衛のためでしょうか?誰かが、自分や自分の家族や自分の国が攻撃された時に限って、防衛の為に武器を使用して敵を攻撃することが許される、と教えているのでしょうか?

 

 注意して読まないと、そう教えているように思い違いをします。

敵の一団がイエス様を捕らえようと向かってきました。そこで弟子の一人が、イエス様の身を守るために、「主よ。剣で打ちましょうか。」と、イエス様に武器使用の許可を求めました。そして、イエス様の御返事を聞かない内に、「返事を聞かなくったって、防衛のための武器の使用は正しいに決まっている。そのためにイエス様は武器の所持を許されたのではないか。」と自分勝手に思い込んで、直ちに、敵に向かって打ちかかり、敵の右耳を切り落としました。

 

さて、この弟子の取った行動に対するイエス様の御返事は、「O・K」だったのでしょうか?いいえ。実は、「NO!」だったのです。防衛のために武器を使用して、武力攻撃をしてはいけません!だったのです。

 

では、これから、イエス様が語られたお言葉とイエス様が取られた行動を正しく理解しましょう。

 

@弟子が防衛の為に武器を使用して相手を攻撃した時、イエス様は、「(武器の使用は)ここまで!(ここからは)相手のなすがままにさせなさい。」と命令されました。

 

もし、武器の使用が防衛のためなら、(武器の使用は)ここまで!ここからは相手のなすがままにさせなさい。と言うでしょうか。それでは、防衛にならないでしょう。もし防衛なら、むしろ、「精一杯防衛しなさい。そのための武器の使用は許します。」と言うはずです。また、剣も、二振りというのは余りにも少なすぎて防衛になりません。

 

そうすると、武器の所持は許しながら、「(武器の使用は)ここまで!」と言われたイエス様のお言葉は、以下の理解以外にあり得ませんね。

「武器の使用は、それが相手への攻撃にならない範囲まで!」

 

たとえ先制攻撃に対する正当防衛であっても、防衛のために武器を使用する限り、どうしても武力の行使・攻撃は避けられません。結局、防衛のためならば敵を殺してもよい、ということになります。これでは、

あなたは殺してはならない。」「あなたの敵を愛せよ。」「あなたの隣人を自分のように愛せよ。という〈創造者の掟〉に反することになります。イエス様の教えは矛盾します。

 

  それではここで、「武器の使用について」のイエス様の教えをまとめておきましょう。

 

○武器の使用は、それが武力行使・攻撃にならない範囲までです。

○武器の使用は、相手の心から攻撃心を無くさせ、相手が攻撃という殺人の罪を犯さないために、それが有効に働く範囲までです。

○その範囲を越えて、武器の使用が、武力行使・攻撃(即ち殺人)になってしまうなら、武器の使用をやめなさい。やめて、祈りつつ、相手のなすがままにさせなさい。」

 

  事実、イエス様は、この後捕らえられ、拷問され、殺されました。そして、相手のなすがままにさせました。

 

Aイエス様は、弟子が、この範囲を越えて武器を使用した結果、被害を受けてしまった相手に手を触れ、元通りに直されました。

 

  防衛のための武力行使・攻撃を認めるなら、その結果敵が傷ついたり死んだりすることも認めることになります。そこまで認めておいて、イエス様が、傷ついた敵に手を触れて元通りに直され、敵への愛を示された、というのであれば、イエス様は完璧な偽善者です。

 

Bイエス様は、本来「人や武器による防衛」など要らないことを、弟子たちに教えておられます。

わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いて頂く事ができないとでも思うのですか。」 

 

イエス様は、「天の父に信頼している者は、自分の身の安全を心配する必要はありません。」と、常に教えておられます。また、「先制攻撃による加害は罪で、防衛攻撃による加害は罪ではない。」などと言った、<二重のものさし>を認めることはありません。また、「敵への防衛攻撃と敵への愛とは矛盾しない。」などと言う詭弁を弄することはありません。

 

Cイエス様は、剣の使用が相手への攻撃にならない範囲を越えて、剣を使用してしまった弟子に対して、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言われました。

 

  武器の所持・使用は、防衛のためではなく、剣をもとに納めるためなのです。剣をもとに納めるためには、「こちらは攻撃心を全く持たず、ただ相手の心から攻撃心を無くさせて、相手が殺人の罪を犯さないよう、武器を有効に使用する。その範囲を越える場合は、もはや武器を使用しない。」という方法以外にありません。

 

   この目的から外れ、この範囲を越えて、武器の使用が武力の行使・相手への攻撃となった時、こちらも、向こうも、武力による滅亡以外の結末はないことを覚悟しなければなりません。

「剣を取る者はみな剣で滅びます。」

 

結論

   日本が戦後60年間、他国の攻撃を受けなかったのは、他国よりも強大な武器を持つからでも、米国の核の傘ゆえでもありません。仮に、強大な武器を所持していたとしても、その武器を決して武力の行使・攻撃には使用しない、と世界に宣言・公約している国だからです。すなわち、日本という国だけは、「武力攻撃するのではないか。」という恐れを、どの国も全く持たなくていい「最も安心な国」だからです。

 

   他国からの攻撃の脅威を想定して、防衛のための武力の行使・攻撃を可能にする憲法に変えなければこれからの日本の平和は不可能である、という理屈は、最低・最悪、最も愚かな理屈です。平和が武力で実現したり、保たれたりすることは絶対にありません。武力を行使する国は、必ず武力で滅びる国です。(神の言葉を決して侮ってはいけません。)

   

ですから、現在の日本の自衛隊の位置は、まさにイエス様の教える位置なのです。

 

《武器の使用は、防衛のために武力攻撃まではしないという範囲まで。この範囲を越える場合は、祈って、相手のなすがままにさせなさい。》

 

 日本は、諸外国のように、この範囲を越えて、武器と攻撃の技術や体制の研究にエネルギーを注ぐより、他国が日本への攻撃心を起こさない優れたセンサー技術や体制の研究にエネルギーを注ぐべきでしょう。丁度、津波の予測対策というセンサー技術の研究・開発にエネルギーを注ぐことで、今や国際社会で名誉ある地位を得ているように。それを他国にも分かち与える。これこそが日本が所持すべき武器でしょう。

 言いかえれば、今の時代、日本は、「という武器」よりも、「という武器」の所持だけで十分なのではないでしょうか。「センサー技術・体制」というだけで。

 

  今、世界はどういう状況でしょう。

 

イエス様の教える「武器の使用範囲」について注意深く考えることもなく、「聖書は防衛のための戦争を認めている。」と間違って解釈し、聖書のどこにも教えられていない「正義の戦争」を、勝手に作り上げて自分たちがしている戦争に当てはめ、その結果何千何万という女子・子供・一般人が殺されようと傷つこうと、(自国の死者でない限り)痛みもやましさも感じず、それどころか、神の名で先制攻撃まで平気でするようになった国が、「世界が模範とすべき自由と平和の国」と豪語している時代です。

 

「わが国の民主主義が人類の理想である。」と豪語する国が、大量の武器(破壊兵器)を所持し、自国防衛のためには、相手に犠牲者が出ようと相手を容赦無く攻撃する。そんな民主主義が本当に「理想」でしょうか。ギリシャのソクラテスは、当時の民主主義者の手によって毒杯を飲まされました。創造者でなく、人間をとする民主主義も、実は、根っ子の所で武力・暴力とつながっていること教えているようですね。

 

  自由と平和が生活環境でも確保されることは、重要な目標でしょう。しかし、だからといって、それを実現するためには武力の行使しかない、とすぐ判断してしまう。そんな心が果たして自由で平和な心でしょうか。自由でも平和でもない、実に狭く不自由で、殺伐とした心ではないでしょうか。

 

《3つのエピソード》

第2次大戦中、ドイツのナチはノルウェーの教会をも支配しました。その時の指導者の一人であったオー・ハレスビーは、ベルグラードフ監督と共に1940年9月、教会会議を開催し、ノルウェーの全教会と全伝道団の指導者たちはナチ支配への打開策を審議し、1942年の復活祭に全教会は政府とたもとを分かち、教会の全牧師は政府の組織としての牧師職を辞任しました。ベルグラーフ監督は監禁。代わって議長に選ばれたハレスビーは、ナチの秘密警察に監視され続ける中で、教会は、国内のユダヤ人が強制収容所に送られたことや、その他ナチの圧力による諸法律に抗議声明を出し続けました。それらの抗議文に、ハレスビーはホーペ監督と共に堂々と署名しました。ハレスビーは全財産を没収され、戦争が終るまで2年間投獄されました。

 

2次大戦前の1914年(大正3年)日本に来た米人宣教師セオドル・ウォルサーは、日本が軍国主義へと急速に傾斜していく中で、国際組織FOR(キリスト教非戦運動団体)を開設して、各地で講演、「剣を取るものは、みな剣で滅びる。」「善をもって悪に勝て。」と説き続けました。一方、母国の米国に対しては、日本人が決して野蛮な好戦国民ではないことを訴え、日本を戦争に追い詰める米国政府の非聖書的政略を指摘し、有識者たちに是正を求め続けました。本国からは、帰国を促す電報が再三来ていましたが、夫妻はこれを無視しました。1942年12月9日、ウォルサー夫妻は警察に連行され、次いで世田谷の学校に収容され、翌年6月米国へ強制送還されましたが、夫妻は日本のスパイの疑いでエリス島に連行、母国でも受け入れられませんでした。釈放後、米国人の日本に対する敵愾心が余りにも強いのを見た彼は、日本への誤解と人種差別からくる優越感を除かなければ解決はないと考え、米国各地を回り、日本への理解と戦争早期終結を訴え続けました。広島・長崎への原爆投下を知った時、彼の怒りは頂点に達し、トルーマン大統領に直接手紙を書き、「神の前に責任を問え。」と詰問しました。終戦後、ウォルサーは、日本への支援運動を進め、特に日本だけでも1500万人が助けられたという「ララ」物資援助に奔走しました。1949年過労のため旅先で召天しました。

 

ドイツの牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーは、周りの人を楽しませるユーモアと人間的魅力に満ちた人でした。その優れた信仰と知性から生まれた多くの著作は今も多くの人に読まれ、深い感化を与えています。彼には素敵な婚約者もおり、未来の夢を語り合っていました。しかし、ヒットラーが権力を握り、多くの教会がナチと妥協する教会になった時、彼は仲間たちと共に「ナチ御用教会」とたもとを分かって、「ドイツ告白教会」を結成、その指導者の一人として信徒を励まし続けました。しかし、ヒットラーによる被害の余りの甚大さとその将来を思った時、ついにイエス様の教える「武器の使用の範囲」を越えて、ヒットラー暗殺を決断しました。しかし、実行直前に発覚、逮捕、投獄。そして1945年、終戦・解放の日の直前に処刑されました。

 

もし生きていたら、戦後どれほど活躍したことでしょうか。ヒットラー暗殺も成功寸前でした。もし成功していたら、どれほど多くのユダヤ人が助かったでしょうか。ユダヤ人以外の人たちも。ドイツの歴史は、どれほどこの忌むべき汚点から救われたでしょうか。

 

 しかし、暗殺発覚によって、イエス様を信じる彼は、「殺人の罪」を犯さなくて済みました。処刑を免れなかったことによって、「憎しみも殺意も殺人と同じである。剣を取る者はみな、剣で滅びる。」という、キリストの王国の憲法を徹底的に学べました。ヒットラーを殺して皆を助け出すという「被害者の味方」にはなれませんでしたが、ヒットラーに共に殺されるという「被害者の味方」になれました。また、後世の教会から「殉教者」という最高の栄誉をも受けました。

 “ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。その裁きは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。”

         ローマ11:33

 

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