新しい皮袋 第35号

「力は神のもの」

猶原 宏(記)

“なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつもあるのだ。

正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。

「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」

しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。

私は世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。

あなたが、こうしてくださったのですから。“

                            詩篇52:1,6〜9

“圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それ

に心を留めるな。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。“

                               詩篇62;1〜12

ルカ5:17〜26

“ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。“

脳の血管障害で体が麻痺し、食べることも、トイレに行くことも、服を着ることも、体を洗うことも出来ず、一日24時間、家族や周りの人々の世話で生きている、この中風の人は全く無力である。私たちも、たとえそのような病気にならなくても、大きな失望・敗北・挫折を体験した時、自分の無力を知らされることがある。聖書にはこんなことが記されている。

“イエスは群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。”

マタイ9:36

まさか群集が弱り果てて地面に倒れていた訳ではあるまい。それぞれに自分の力で生きていた人たちだろう。でも、イエスの目には、弱り果てて倒れている人、全く無力な人に見えたのである。自分の力で強く生きているのは、強い人だからなのではなく、自分が弱い人間であることを認めたくないから、認めるのがつらいから、怖いから、ということがよく見えていたのである。「私は強い人間だ。弱い人間ではない。」と自分に言い聞かせながらみんな生きていると。人からは誰よりも強く生きているように見えたパウロは正直でした。

だれかが弱くて私が弱くない、ということがあるでしょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(Uコリント11:29〜30)

 

本論

全く無力な人に、救いはあるだろうか?希望はあるあるだろうか?

あるどころか、そういう人こそ幸せが最も近いと聖書は伝える。

イエスはこの全く無力な人にどうされたか?彼はイエスから何を体験し、何を学んだか?

 

@イエスは、彼に信仰を持たせることが出来た。

Aイエスは、彼の罪を赦すことが出来た。

Bイエスは、彼を神の力で起きて歩けるようにされた。

 

1、自分の無力を認めた時、この人はイエスに全面的に頼れるようになり、頼ることにした。

彼は先ず、無力になったためにイエスに対して持てるようになった信仰を友人たちに正直に表わした。すると友人たちも、彼に自分たちもイエスを信じることにしたことを正直に表わすことが出来た。そして自分たちの信仰を彼の信仰に重ねることが出来た。重ねられた信仰は、彼をイエスのまん前まで連れて行った。信仰さえあれば、群集の存在も屋根の存在も、もはや問題ではなかった。

 

2、イエスへの信仰は、この人に、罪の赦しの宣言という恵みを実現させた。

   彼が赦された罪とはどういう罪か。ここには、この人が個人的に犯した罪は取り上げられていない。だから、ここで彼が赦された罪は、人間誰もが持っている元々の罪、すなわち、最初の人間アダムが犯した「原罪」である、ということになる。

全ての人間の中にある「原罪」を聖書はこう教える。

 

人間は、創造者との掟(契約)を破り、創造者とのつながりを切ってしまった。

 

イエスへの信仰は、この罪の赦しを実現して、創造者とつながりを回復させてくれる。

 

3、イエスへの信仰は、イエスがこの人を神の力で起きて歩けるようにするという恵みを実現させた。

    イエスは彼に「起きて歩け。」と言われた。すると、彼の心と体に神の力が現れ、彼は起きて歩けるようになった。

この「起きる」という言葉は、(中風のように)病で横たわっている人が寝床から起きる

時に使う言葉ではなく、人が眠りから覚める時や死人が復活する時に使う言葉である。

イエスは、死人を復活させる神の力で、心も体も起きて歩けるようにされたのである。

この聖書の記録は事実である。なぜなら、イエス自身,死人の中から神の力で復活したからである。だから、もしイエスが復活していないならば、聖書は全て作り話となる。

 

これが、新約聖書の中心メッセージである。

『イエスは、私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、

三日目に、神の力によって死人の中から復活された。

だから、イエスを信じる人には、イエスを復活させた神の力が常に働き続ける。』

 

“また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか、をあなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストの内に働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、・・“

                                     エペソ1:19〜20

誰でも全くの無力を自覚する時こそ、全面的にイエスに頼る信仰を持てる。その信仰を通して,イエス・キリストにより、聖なる霊の力が、無力の中に現れ、起きて歩けるようになる。

 

“落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。”

“主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。”

“主はあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現して下さる。

イザヤ30:15,40:31、U歴代誌16:9

ただし、一人々々の「無力」に対する神の力の現れ方は違う。人によって、起き方・歩き方は違う。それは人知を超えた神の御心で決められる。例えばパウロの場合、ある種の肉体のとげを持ちながら起きて歩く力が、彼の無力の中に現された。

 

“私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。“

                                      Uコリント12:7〜9

イエスは、イエスを信じる人にいつもこう語りかけておられる。

わたしの力は、あなたの無力の中に現れている。だから、今与えられている力で起きられるだけ起きなさい。歩けるだけ歩きなさい。そして、神を賛美しながら、自分に与えられた力で出来る分の良い行いをしながら歩いてゆきなさい。それがあなたに与えられた神の栄光を表す人生です。人との比較は無意味です。もうやめなさい。あなたはあなたの分の行いをすればいいのです。さあ,起きて歩け!

 

“彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、・・・・・“                                      マタイ25:14〜15

“私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた。

神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも予め備えてくださった。”

エペソ2:10

結論

自分が全く無力であることを知らされた人は、イエスへの信仰を通して、罪を赦され、神の力で起きて歩けるようにされるだけでなく、聖書が教える永遠の真理を理解出来る。

 

すべての力は神のものである。

 

  殆どの人は全くの無力ではない。何かが出来る。しかし、何かが出来るその力は、実は

その人のものではなく、神のものである。その力は、あくまでその人への神の賜物である。

“神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は神のものであることを。”

                     詩篇62:11

自分に今ある力が神のものであるなら、自分に今ある力は、同時に神にあることになる。

“何と幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある

人は。”

                           詩篇84:5

自分に今ある力が、同時に神にあるとするなら、結局、自分はいつも神の内にいることになる。だから、結局こう告白することになる。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。”

詩篇23:7

だから、今力のある人は、だれでもこうすべきである。

“力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。” 

                詩篇29:1

息をする力から始めて、ありとあらゆる力、知力、気力、体力、決断力、行動力、・・どんな力であろうと、すべての力は神のもの。神の力。多く与えられていようと,少なく与えられていようと。

“私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。”

Uコリント4:7 

全ての力は神のものである、と心から理解出来た人は、もはや、いかなる権力にも経済力にも政治力にも軍事力にも頼らない。また、自分が努力して培った知力や体力やあらゆる実力にさえも頼らない。ただ、それら全ての力の所有者であり付与者である神にのみ頼り、期待する。政治活動であれ、経済活動であれ、芸術活動であれ、この地上の全ての活動を、常に信仰によって行う。すなわち、全生活を信仰によって生きる。そのように生きることで、この世界の主権者がサタンではなく、神とキリストであることを、この世界の全住民に知らせ続けるのである。たとえ、今この世界がサタン(悪魔)に欺かれており、この世界の国々の支配・権威・権力栄華がサタンの手に落ちていようと、そしてその結果、国々の支配者・指導者がサタンとの妥協で権力を手にして国民を統治していようと、それでも、この世界は決してサタンの国ではなく、神の主権の下にあること、この世界を貫いている基準(ものさし)は、決して人間の義ではなく、神の義であることを、この世界の全住民に知らせ続けるのである。

 

“また、悪魔はイエスを連れて行き、瞬く間に世界の国々を全部見せて、こう言った。「この国々の一切の権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、全てをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」“

ルカ4:5〜8

“ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。”

“王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。”

詩篇20:7,33:16〜17

BC950年頃のこと。クシュの軍隊100万人が南ユダを攻めてきた時、南ユダの王であったアサはこう祈った。

 

“「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」

主はアサの前とユダの前にクシュ人を打ち破られたので、クシュ人は逃げ去った。“ 

U歴代誌14:11〜12

   そのアサの子ヨシャパテの時代、モアブ・アモン連合軍が攻めてきた時、彼もまた王でありながらこう祈った。

 

“「私たちの神よ。あなたは彼らを裁いてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」

ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。“

U歴代誌20:12〜13

   その結果、どうなったか。

“アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。”

                                    U歴代誌20:23

 

「結局は武力が平和を勝ち取るのだ、経済力が国の幸福を左右するのだ、政治・外交力が歴史を動かすのだ。」

 

神の義の平和でなく、民主主義の平和を樹立するため、神の名まで用いてまでして、他国への先制攻撃を正当化するのはなぜか。

神にのみ頼り、期待するのではなく、力に頼り期待する限り、どんなに魅力的な目標を掲げようと、その結末は拷問・殺人まで至ることを歴史の中で痛いほど知っていながら、それを情報操作で欺き、隠蔽して同じ歴史を繰り返し

ていくのはなぜか。

どの国も、宗教や文化や知性の価値を認めながら、根本では、自分も国も、力に頼り、力に期待し、力を蓄えて、自分も国も守ろうとするのはなぜか。

 

不安で恐いからである。

不安で恐いのはなぜか。

 

自分たちが、本当は「無力である」ことを知っているからではない。

本当は、「全ての力は神のものである」ことを信じないからである。

神にのみ頼る信仰を、心の中で笑っているからである。

 

弱く無力だから、不安で恐いのではない。

神でなく、力に、頼り期待しているから、いつまでも不安で恐いのである。

 

    神にのみ頼り、期待する人間だけが、永遠の真理を理解し体験する。

 

   “私が弱い時にこそ、私は強い”という真理を(Uコリント12:10

 

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