新しい皮袋 第32号
「苦しみをどう判断すればよいか。」
(聖書)
“あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練と共に、脱出の道も備えて下さいます。”
Tコリント10:13
(問題点)
ひどい苦しみに会うと、何かの罰ではないかと思ってしまう。あるいは、毎日楽しく過ごしていることを神は気に入られなくて、苦しみでしっぺ返しをされたのではないかと思ってしまう。苦しみの理解があいまいなため、いつまで経っても神の愛が心から信じられず、神は意地悪で気まぐれな方だと思ってしまう。
(答え)「苦しみ(肉体的・精神的・経済的・社会的)は、決して悪ではない。」
(聖書によると)
◎創造者とつながっていた時、人間に苦しみは無かった。
しかし人間が「創造者の掟」を破り、創造者とのつながりを断ち切ってしまった時、「苦しみ(イバラとアザミ)」は、全ての人と結びつくことになった。苦しみには、神の義が貫かれている。
◎しかし、神は苦しみをその人にとって益とされるように働かれる。
〇神は、苦しみを「真理を悟る幸せ」につなげようと働かれる。
“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたの掟を学びました。”
詩篇119:71
〇神は、苦しみを「罪を赦され、天国に入れる魂の平安」につなげようとして働かれる。
(死は終りでなく、完成となるようにされる。)
“ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私の魂を引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。”
イザヤ38:17
神の愛は、このように苦しみと関っておられる。
◎
だから神は、決して苦しみを「悪」と判断されない。
(聖書の信仰者を見よ)
聖書に出てくる信仰者も私達と同じ弱い人間である。苦しみを素直に「苦しい!」と言っている。「主は私をひどい苦しみに会わされた。理解出来ない災いに会わされた。もう私は苦しみで耐えられない!もう限界だ!いつまでこんな苦しみが続くのか!主よ、早く助けて下さい!どうして助けてくれないのか!」と。
ところが、聖書の中の信仰者で誰一人として、「苦しみ・災いは悪である。」とは言わないのである。判断しないのである。決めつけないのである。当然、結論として、「私を苦しみ・災いに会わされた神は間違っている。」と言わないのである。判断しないのである。決めつけないのである。
例えば、聖書に出てくる最も悲劇的な人物の一人をよく見てみよう。実際生活で一つも不正をしたことがないのに、ナチのホロコーストのようなひどい苦しみを受けたヨブを見てみよう。ヨブ記の中の彼の叫びをまとめるとこうなる。
〇「かつて私にあんなに恵みを与えられた神が、どうして急にこんな苦しみを私に与え続けるのか!その上沈黙し続けるのか!」
〇「私は神が分からない!私は神と論じたい!神から納得出来る説明を聞きたい!そうしたら決着が着くのに!」
〇「こんなに訴えている私に、それでも神は答える御意志がないのなら、もう私を見逃してくれ!私を放っておいてくれ!私を死なせてくれ!私は死んで安らぎたい!その方がましだ!」
〇「神は私にまるで敵のように苦しみで立ち向かい続けられる!私にはもう神が全く分からない。しかし、分からないけれども、それでも私は私の生涯の最後には神が私の証人になってくれることを信じている!神が私の味方になってくれることを信じている!私は何も悪いことはしていないのだから。」
〇「ああ、それでも私は神の答えを求める。神よ、私に答えて下さい!」
これがヨブの叫びの要約である。
ところが、これほどひどい苦しみに会ったヨブなのに、一つのことだけはしないのである。「苦しみは悪だ!悪である苦しみを与える神は間違っている!」とヨブは決して言わないのである。
どうしてなのか?ここまで神に訴えているのなら、もうそこまで結論を出してもいいのではないか?
〇ヨブは、自分の判断ではなく、神の判断で行動する人だったからである。苦しみに対して大いに訴えるけれど、「苦しみ」に対する神の判断には文句なく、躊躇なく、疑問も反発もなく従う人だったからである。そして、その神は、「御自分が善であり、御自分が与える苦しみは悪ではない。」と、当然判断しておられることをヨブはよく知っていたからである。
ヨブだけではない。聖書に出てくる全ての信仰者は、この神の判断で行動している。神に向かって大いに叫ぶが、訴えるが、「神よひど過ぎます!あんまりです!」と大いに洩らすが、決して「神は間違っている!」とは口が裂けても言わない。言いたくても言わないのではなく、一瞬だってそのような理解や思いを持たないのである。
〇ヨブ記にはもう一つエピソードがある。ヨブの友人達が、ヨブを苦しみから救い出したくて自分達の判断でヨブに助言した。その助言はこうだった。「苦しみは何かの罪の罰に決まっている。ヨブよ、お前はきっと何か罪を犯したのだ。だからその罪を認めて悔い改めよ。そうすれば神はお前から苦しみを取り除いてくれるだろう。」
このヨブの友人達の判断と助言は完全に間違っていたのである!彼らは、「苦しみは罪の罰に決まっている。」という自分の判断をヨブに押し付けた。神の判断ではなく、自分のしかも間違った判断を。だから神は、「ヨブは罪を犯さなかったが、ヨブの友人達は罪を犯した。」とおっしゃって、ヨブに、友人達の罪が赦されるよう祈れ、と命じてさえいるのである!
〇さらにヨブ記では、神がヨブに苦しみを与えられた意図までが分かるようになっている。苦しみについて神とやりとりする中で、ヨブの中からあるものが現れ出て来たのである。神に叫び訴えている内に、いつの間にかヨブの中にもともとあった罪、ヨブが生まれながらに自分から選び取った罪、《神よりも自分の方が正しいとする高慢の罪》が、内から外に現れ出て来たのである!結局その罪を神から叱責されることにより、生活面では何一つ不正をした覚えのなかったヨブは、「自分も他の人と同じく神に対して高慢な罪人である。」ことをはっきりと知り、また認めることが出来、最終的に心から納得して神の御前に悔い改め、へりくだることが出来たのである。神は、最終的にヨブの味わった苦しみに対し、何と二倍の祝福で報われている。
(全ての人は神の判断ではなく自分の判断で行動している。)
◎
私達は生まれながらに、「苦しみは悪である。」と判断し易くなってしまった。決めつけ易くなってしまった。
◎
この大間違いは、エデンの園から始まった。
最初の人間アダムとエバはエデンの園で神の掟を破り、善悪の判断・決定権を神から奪い取って、自分が善悪を判断・決定することにした。この事件の後、苦しみが全ての人と結びついた訳である。だから、アダムとエバが神から奪い取った善悪の判断・決定権を先ず、彼らが体験するようになった苦しみに対して行使したのは当然過ぎるほど当然であったのである。
「私を苦しめる苦しみが善であるはずがない!悪に決まっている!私に苦しみを与える神は間違っているに決まっている!」
この時から人間は、いくら「神はあなたを愛しておられる。」「神はあなたをあるがまま受け入れておられる。」と聞かされ、知らされても、なかなかそれを信じられなくなった。
(「耐えられる苦しみ」と「耐えられない苦しみ」)
◎
苦しみは悪ではないが、神が「その人には耐えられる」と判断される苦しみと、「その人には耐えられない」と判断される苦しみがある。
(その人にとって耐えられる苦しみか、耐えられない苦しみかは、神だけが正しく判断される。)
◎
「その人には耐えられる苦しみ」と神が判断されておられる場合は、神に祈り求めれば、神はその苦しみに耐えられる「希望と忍耐」を与えられ、また、その苦しみからの「脱出の道」を備えて下さる。また、神の御心の時に苦しみを取り除いて下さる。
(なぜ苦しみを直ちに取り除かれずに御心の時に取り除かれるのかというと、耐えられる苦しみは悪ではないからである。)
〇だから、祈っているのに神が直ちに苦しみが取り除かれない場合は、むしろ、神が今許されている苦しみを通して、「真理を知る幸せ」と「魂の平安」とを神に求めるべきなのである。
◎
耐えられない苦しみ」は、誰でもイエス・キリストを信じる瞬間に直ちに取り除かれる。
〇誰も耐えられない苦しみが少なくとも二つある。
一つは、「罪を赦されず、天国に入れない時の絶望の苦しみ」である。
もう一つは、「自分を全く愛せない、受け入れられない苦しみ」である。「自分を憎み、嫌い、責め、罰し、否定する苦しみ」である。
(この二つの苦しみにまともに耐えようとすると自殺するしかない。だから、この二つの苦しみに対しては、神によって、すでに「脱出の道」が用意されている!)
イエス・キリストが、すでに罪と欠陥と問題のある私たちと一体となって下さっている、という脱出の道である! 私達はこの事実を信じるだけで、直ちにこの苦しみから救われる!私たちはその瞬間から、「イエスに愛され、イエスと一体となっている自分」をあるがまま愛し、受け入れられる!肯定出来る!
〇聖書に出てくる人は皆このことを証明している。一例をあげよう。
一人のライ病人が、イエスの御許(みもと)に来てひざまずき、「もしあなたが私をライの汚れから潔めようと思って下さるなら、私は潔められます。あなたは全能者ですから。」と信仰を持ってお願いした。イエス様は彼に対してどうされたか?
イエスはひざまずき、彼の皮膚に手をつけて、「もちろんだ!汚れを潔めることはいつでも私の思い(判断・決定)だ!さあ、汚れを潔めてあげよう!」とおっしゃって、直ちにライ病の苦しみから救われた。
もし、彼の苦しみが肉体の苦しみだけなら、イエスはひざまずいて彼の皮膚に手をつけなくても病気を癒すことがお出来になった。ではなぜ、彼はひざまずいて彼の皮膚に手をつけられたのか?
彼の苦しみが、「肉体の苦しみ」だけではなかったからである。又人々と社会から差別される苦しみだけではなかったからである。彼の苦しみが、「自分を愛せない、自分を受け入れられない、自分を喜び・誇り・感謝出来ない苦しみ」だったからである!
恐らくライ病人の苦しみは、人間として最大の苦しみではないか。
「私をこんな欠陥人間にお造りになられた神は間違っている!だから、いくらあなたが私を愛しているとおっしゃったって、私をあるがまま受け入れるとおっしゃったって、私は絶対信じない。認めない。私にライ病を与えたあなたは間違っているのだから。私はこの私の判断を絶対に捨てない。あなたが何とおっしゃろうと、私の判断の方が正しいに決まっているのだから。私をライ病にしたあなたの方が間違っているのだ!ライ病になった私の方が正しいのだ!もし、こんな欠陥がなければ、私は他の人と同じように幸せになれた!こんな苦しみは味わないで済んだ!」
これがライ病人の苦しみである。一体、多くの人々の人生の中で、これ以上苦しい「苦しみ」というのがあるだろうか?
《一番大切なメッセージ》
しかし、イエス様は、このライ病人を、この最大の苦しみから、誰も絶対に耐えられない苦しみから、直ちに救われたのである。ひざまずいて彼の皮膚に手をつけることで直ちに救われたのである。
「わたしはお前の欠陥を全部引き受ける!それだけではない。お前に欠陥があろうと欠陥のあるままお前を愛している!私が手をつけているのはお前の欠陥だけではない、欠陥のあるお前に、欠陥のあるままのお前に手をつけているのだ!私は欠陥のないお前を受け入れるのではない!欠陥のあるお前を欠陥のあるまま受け入れているのだ。 だから、もう苦しむな!むしろ喜べ!大いに喜べ!これが私の心だ!私の意志だ!苦しみよ、この人から去れ!」
イエスを信じる時、一瞬にして、この誰も耐えられない苦しみは去るのである。信じようではないか!
記 猶原 宏
転送・コピー・ファックス、どうぞご自由に。
「岩の上ミッション」
(郵便振替 00910−0−81541)