新しい皮袋 第30号                                                   

 

「どちらでいきますか?」

                                                                      (記) 猶原  宏

  (祈り)「天の父よ。私の中の神の国が揺るがないものとなりますように。」

(目標)「神の国の国民であることをますます自覚する。」

 

   神の国は、人の目で認められるようにして来るのではありません。

   神の国は、(神の国の国民である)あなたがたのただ中にあるのです。

                                                                   ルカ17:20〜21

 

 昔、カルネアデスというギリシャ人がこんな問題を出したそうです。

 

 

「船が難破。今あなたは一枚の舟板につかまって救助を待っている。もう一人舟板めがけて泳いで来る。舟板は小さ過ぎ二人は無理。あなたならどうする?」

 

 今の私には答えられません。どうして答えられないか、は答えられます。

 

○神様の愛を信じているけれど、私はまだその愛を私の全てとしていない。

○神様とつながっているけれど、私はまだその命を私の全てとしていない。

○死んで天国へ行けるけれど、私はまだその確信を私の全てとしていない。

 

 では、次の問題はどうでしょうか?

「衣食住が厳しくなったら、あなたは先ず何をしますか?」

 

「当然、先ず衣食住を捜しますよ。決まってるでしょう。」

 

 ところが別の答えをする人たちがいます。その人たちは、「私は、先ず神の国と神の義を探します。」と答えるのです。

 

「神様は私の内に働いて下さっているだろうか?神様は私の内に御心を示して下さっているだろうか?これが私には先ず大切です。先ず、私に神の国と神の義はあるかどうかが大切です。もしあれば、衣食住は当然、国王である神様の保護責任のもとにありますから、必ず神の国の国民に支給されます。」と。

 こう答える人たちが、「神の国」の国民です。

“何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。

これらは皆、この世の異邦人(神の国以外の人)が切に求めているものです。 あなたがたは、神の国を求めなさい(探しなさい)。そうすれば、これらのものは、あなたがたに加えられます。       

                                                                    ルカ12:29、31

※「求めなさい」と訳されている言葉は、「探しなさい」という意味の言葉で、“願い求める”という祈りを意味する言葉とは違います。「すでにある神の国を捜して見つける。」ということです。

 

「神の国の国民」か。「この世の国の国民」か。あなたはどちらでいきますか?

 

T

 今この地上に、神の国はありません。地上にあるのはこの世の国ばかりです。神の国がおとぎ話だからではありません。建設中止になったからです。でも、地上に今は建設出来なくても、人の中には、いつだって建設出来るはずです!

聖書は、「神の国建設の中止と再開と完成の歴史」を教える書です。

 

@神様に造られた最初の人間は、神様と「神の国の国民」となる契約を結びました。人間の使命は、「神の国」を地上に建設することでした。

 

A最初の人間は契約を破棄し、神の国の地上建設は挫折しました。自己中心となった人間は、地上に「この世の国」を建設しました。

 

B神様は、イスラエル民族を選び、彼らと「神の国の国民」となる契約を結び、彼らによって現在のパレスチナの地に神の国を建設させ、世界のモデルにしようとされました。でも、彼らは神との契約条件(神の国の掟)を守れず、建設は失敗しました。

 

C神の御子が、人間となって地上に来られ、人間の罪を引き受けて十字架上で死なれ、三日目に復活され、父なる神の右の座に昇天・着座され、全人類の救い主・王の王・主の主となって下さいました。

 

 誰でも神の御子を信じるなら、神様はその人の中に御聖霊を送られ、その人の中に「神の国」を建設され、その人を「神の国の国民」とされます。

 

 世の終わりに、王の王・主の主である神の御子イエス様が再び地上に来られ、自分の中に神の国を建設し続けた世界中の「神の国の国民」を、目に見える形で一つにされます。その時、神の国はこの地上に完成されるのです。

 

“それは、神が御子によってあらかじめお立てになった御計画によることであって、時がついに満ちて、この時の御心が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちはすでに御国を受け継いでいるのです。”   

                                                                     エペソ1:9〜11

U

「神の国」の国民性と「この世の国」の国民性は余りにも違うので驚く程です。

 

“私は主に申し上げました。

 「あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたのほかにありません。

 私はいつも私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私は揺るぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私の魂は楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」                                                                                                    詩篇16:2、8〜11

「神の国」の国民は、ただ神様にのみ頼り、いかなる人にも物にも権力にも頼らない独立した人間になることを願います。

 「この世の国」の国民は、神様の支配からの独立を願うでしょう。

 

「神の国」の国民は、神様の導きと指示には絶対的に聞き従い、それ以外の   義務や命令には相対的に従う自由な人間になることを願います。

 「この世の国」の国民は、神の掟から自由になることを願うでしょう。

 

「神の国」の国民は、自分が神様に造られた、神様にとって価値のある自分、   神様から賜物を与えられた、神様にとって有益な自分であることを信じる自信(自尊心)にあふれた人間になることを願います。

 「この世の国」の国民は、自分が人や社会にとって価値があり、有益であることを信じる自信にあふれた人間になることを願うでしょう。

 

「神の国」の国民は、サタンによる神の国への攻撃には、命をかけて戦い、人による個人攻撃には、「敵を愛せよ」との神の掟を守って戦う人間になることを願います。

 「この世の国」の国民は、他国による祖国への攻撃には、命をかけて戦い、人による個人攻撃には、自分の名誉を守って戦うことを願うでしょう。  

      この世の国の国民が、愛国心から神の国の国民を攻撃することもあり得ます。

       

      V

「神の国の国民」は、神中心に行動します。

「この世の国の国民」は、人間(自己)中心に行動します。 

 

「神の国の国民」は、<神が自分の財産>という損得で行動します。

  この世の国の国民は、<この世の物が自分の財産>という損得で行動します。

 

 

「神の国の国民」は、<神の掟>で行動します。

 

    

 「この世の国の国民」は、<人間の掟>で行動します。

 

      神の掟は、神様との契約を破って神様とのつながりの切れた人間の魂に刻み 込まれているので、誰でも、その人の魂は神の掟を知っています。

       

 “神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれ(父・子・御霊)の一人のようになり、善悪(神の掟)を知るようになった。” 

創世記3:22

                                                                             

 ところが、神の掟が魂に刻み込まれていても、人間はそれを自分の国や地域の文化や慣習や自己中心的性質によって自由に削除、修正、変更しますから、最早それは神の掟ではありません。人間の掟にすぎません。

 

      日本は昔14〜5軒の村落共同体生活をしていました。村落の掟は4つ。「殺傷するな。」「盗むな。」「放火するな。」「恥を警察に知らせるな。」だけでした。この4つが掟となったのは、「自分が殺され傷つくこと、自分の物が盗まれること、自分の家が放火されること、自分の恥を警察に知らされることだけはいやだ。」という損得が共通したからです。これ以外なら、国の法律で犯罪とみなされても村では犯罪とはみなされませんでした。

       

  さらに、村落には超法規的、絶対的な掟がありました。

「村を割ってはいけない。村を割ることは一番重い罪である。」という「の掟」です。村では「和」は正義・公正・誠実よりも重い掟でした。これらの掟を破った人は、「村八分」と言って共同体を追放されました。

 

 『日本』というこの世の国は、『一つの大きな村落(大和の国)』ですね。

 

      どの国でも、「親が子を愛する愛だけは純粋だ。」と言います。でもあの福沢諭吉でさえ、この世のいかなる親の愛も、「神の掟」で愛する 愛ではなく、「人間の掟」でしか愛せない罪深い愛だ、と見抜いております。次の彼の言葉は実に至言ではないでしょうか。 (中津留別の書より)

  『親は、子を愛することのみ知って、子を愛する道を知らない。

 

“若者をその行く道(神の掟)にふさわしく教育せよ。そうすれば年老いてもそれから離れない。”                                 

箴言22:6

神の国の国民しか、神の掟で子供を愛する親にはなれない、と聖書は教えます。

 

W

“悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、これと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」

イエスは答えられた。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」                                                                     ルカ4:5〜8

「この世の国の国民」には、自分の中も外も「この世の国」しかありません。

でも、「神の国の国民」は、自分の中には「神の国」、自分の外には「この世の国(私たちの場合は、日本)」があります。(第5号「生きるとは」参照。)

 

 ○神の国は、私を造られた神様の治める国です。

 ○日本は、私を生み育ててくれた両親の国であり、私を守り育ててくれた家族・同胞たちの国であり、私を生かし育ててくれた大地の国です。

 

 ○自分の中の「神の国」の国民である私は、神様に仕えます。

 ○自分の外の「日本」の国民である私は、日本に仕えます。

 

 ○神の国の国民である私は、神様に絶対的に仕えます。

日本の国民である私は、日本に相対的に仕えます。為政者にも会社の上司  にも、たとえ両親であっても、相対的に仕えます。絶対的には仕えません。祖国であれ、親であれ、神様以外はすべて相対的だからです。

        

 ところが、神様とのつながりを切って人間(自己)中心となった人間は、支配者や親を相対化しにくくなりました。むしろ絶対化しやすくなりました。人間の政府が作った法律は相対的な法律なのに、絶対化されて国民を当然のように抑圧したりします。神様から託されている為政の権威も相対的な権威にすぎないのに、絶対化して国民に不当な強制をしたりします。

 

 この悲劇は、時々神の国の国民にも起こります。

 

 

 

“わたし(イエス)よりも父や母を愛する者(絶対化する者)は、わたしにふさわしい者ではりません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者(絶対化する者)は、わたしにふさわしい者ではありません。

“わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、その上自分の命までも憎まない者(相対化しない者)は、わたしの弟子となることが出来ません。                               マタイ10:37、ルカ14:26

※非戦論をもって「日本」の圧力と戦った、明治のクリスチャン内村鑑三は、神様を絶対的に愛し、生涯をかけて自分の中に神の国と神の義の確立を追求した人です。でも、同時に、彼は「日本」をも絶対的に愛そうとしました。そのことがよく分かる、彼の有名な言葉がこれです。

 

 

   『私は日本のため。日本は世界のため。世界はキリストのため。

           そして全ては神のため。』

 彼にとって、「日本」と「神の国」は一つであってほしかったのです。

 これが彼の悲劇でした。彼は二人の主人に仕えようとして生涯苦しみました。

 

 祖国を愛し、同胞の救いを自分の命以上に願ったエレミヤにとっても、ダニエルにとっても、祖国は「主は与え主は取られる。主の御名はほむべきかな。」でした。誰よりも祖国を愛し、祖国の独立のために戦いながら、誰よりも祖国に対して相対的でした。自由でした。祖国は自分の外にあったからです。自分の中には「神の国」が揺るぎなくあったからです。「私の国籍は天にある。」と。

 

最後に

 もし、神様の愛が全身満ちあふれ、神様とのつながりの実感、いつ死んでも天国に行ける確信が全身満ちあふれている「神の国の国民」だったら、冒頭の「カルネアデスの問題」にどう答えるでしょうか。(以下は、私の想像です。)

 

@きっと、舟板をその人に譲るでしょうね。

Aもし、相手も同じ神の国の国民で、その舟板が一人しか助けられないことを知って彼の舟板提供を拒む人だったら、彼はどうするでしょう。

 きっと、二人で祈り合ってくじを引き、お互いに主の決定に従うでしょうね。

 

そんな人がいるのでしょうか。いるのです。ハンセン病患者の牧師となり、日本国家の神社参拝強制に従わずに5年間投獄され、拷問を科す相手にひたすらイエス様の救いを語り、その後、二人の息子を共産主義者に虐殺され、何と、息子殺しの犯人を死刑執行直前に引き取り、自分の息子として心から愛し、しかも、最後は共産軍に連行されて銃殺された人。韓国の孫良源牧師。

きっときっと、彼は、主から「国民最高栄誉章」を受けていることでしょう。

 

       

       

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