新しい皮袋 第三号
「初めに神」
(祈り)「天の父よ。私をあなたのお働きにお用い下さい。」
(目標)「いつも先ず、神様のお働きを黙想する。」
“神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたに抱かれています。”
詩編71:5〜6
序
私たちは長い間、太陽が私たちの周りを回っていると思っていました。実は、私たちが(地球に乗って)太陽の周りをまわっていました。驚きと感動の発見でした。しかし、この世界にはもう一つの事実が貫かれています。
私たちが神様のことを思い考える前に、神様が私たちのことを思い考えておられるという事実。先ず神様の方で、私たちを御覧になり語りかけ働きかけ耳を傾けておられます。神様に目を向けるとは、この驚きと感動を発見することです。
「私は、自分のために生きる。神様もこの世も私次第。」なのか、それとも、「神様は御自分の為に私を造られた。神様は私の人生を助けるお方。神様が先ず私に語られ働かられる。神様は御自分の御働きに私を用いることを願っておられる。私は神様のお働きに頼って祈り、自分の分を行なう。」なのか、自分が中心か、神様が主人か、で全てがどんでんがえしとなります。本来の私たちは「初めに自分、初めに人」ではなく「初めに神」でした。
T
神様は、心を込めて私たちを造って下さいました。無条件で私たちは神様にとって大切・価値があります。無条件で神様に愛されています。
“愛は、・・全てをがまんし(おおい)、すべてを信じ(信用し)、すべてを期待し(希望し)、すべてを耐え忍びます。”
Tコリント13:8
人間が的外れの行動と状態(罪)に陥っても、神様は私たちを寛容と信用と希望と忍耐で愛して下さいます。でも、罪が神様と私たちとの間の仕切りとなるので、神様はこのままでは私たちを受け入れることが出来ません。しかし、イエス様が私たちの罪を全部引き受けてくださいました。ですから、今、イエス様だけは、私たちをあるがまま(罪のまま)受け入れることがお出来になります。
だからといって神様は、「このままでいい。」と、私たちの行動・状態を許し(許容し)ておられるのではありません。肯定しておられるのではありません。是認しておられるのではありません。「罪の行動・状態であってもあなたは今ここに生きていていい。自分を拒絶しなくていい。なぜならあなたの存在はわたしの喜びだからです。そして今は、我が独り子イエスのゆえに、わたしは、あなたの状態がどうであれ、あなたの存在を受け入れています。」と、神様は、私たちの罪の状態・行動でなく、私たちの存在を肯定しておられるのです。
私たちの罪は怒りの対象ですが、私たちの存在はいつでも神様の喜びなのです。
※時々自分に問題や欠点があっても、心から自分の存在を喜び肯定しありのままの自分を受け入れている人がいます。きっと親や他人に心から愛されてきたのでしょう。でもその人はイエス様のゆえにその行為が神様の目に不誠実・不遜な行爲と見られないこと、イエス様のお陰でその行爲が許されていることを気がついていないのです。
実は、イエス様が罪ある私たちをありのまま受け入れて下さっても、自分も良心の咎めを感じることなく自分をありのまま受け入れるには、やはり条件があります。イエス様を自分の主人とすることです。
もし誰かが、的外れのあなたをそのまま受け容れてくれるとします。 でも、それを根拠に「私は自分をこのまま受け入れていいのだ。」とはそう簡単には考えないでしょう。ただそう考えても許される場合が一つだけあります。自分の主人がそう言ってくれた場合です。その場合、しもべは安心して主人の言葉には従うことが許されているからです。
この世は何と言う差別の世界でしょうか。ところが、神様は先天的にも後天的にも違う機能、違う能力で生まれ育つことを許されます。時にはただ存在しているだけではないかという、重い病気、機能障害さえ負わされます。何というハンディでしょうか。
でも、その人の状態が重ければ重いほど、ひどければひどいほど、神様にとってその価値は間違いなく重く、その存在の喜びは間違いなく深いに決まっています。御自分の独り子イエス様を身代わりにされても惜しまない程、重く深いに決まっています。人知を超えた神様の御心の中でこれだけは理解でき信じることが出来ます。
※このテ−マに疑問を持つ人も、罪の結果不条理となったこの自然界でいつ不慮の病気や事故に会い、重いひどいハンディを負うかもしれないのですから。
“彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ、・・その愛とあわれみによって主は彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。”
イザヤ63:9
本当の問題は、この世の人がこの世の価値観、『健康で有能・優良が最も価値があり、普通は普通の価値があり、それ以下はそれ以下の価値がある。』で生きていることでしょう。だからお互いに愛せず愛されず、受け入れず受け入れられず、神様から与えられたその人の責任と使命を見ず見られず、お互いにこの的外れの価値観に教育感化されて差別し差別される所で生きなければならない、これこそが本当の問題です。この世が的外れである限りこの体験は避けられません。
※ですからイエス様は、私たちがこの世の価値観を打ちこわし、この世の差別を乗り越えられる人になるために来られました。そして私たちがこの世でお互いに、本来 の価値観で助け合い、励まし慰め合える人になるために。
※幸せの理解も違ってしまいました。もちろん健康で、いい人たちに囲まれて、生き甲斐のある人生を送ることは幸せです。しかし幸せの根源は神様に祝福されていることです。仮に肉体的・精神的・家庭的・社会的に厳しい体験をしていても“わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に 現れるからです。”Tコリント12:9
弱い肉体が神様の力を体験することは、もちろん神様の祝福です。しかし、肉体・精神的状況が依然として厳しくても、弱さのどん底でも、魂が平安と希望にあふれ、自由に力強く生きてゆける体験をする時、最も深い幸せを覚える、それが人間の崇高さではないでしょうか。
聖書は、神様のもとを離れて迷子になり、自分中心に判断し選択し決断し行動する「的外れ」のすべてを、神様の法と約束に基づいて「罪」と宣告します。当然、神様の法と約束を破る罪はあってはなりません。丁度一本のヘアピンにも雷が落ちるように、罪に対しては必ず神様の怒りと裁きと刑罰が下ります。ところが人間は悲しいことに、良心が『お前のしていることはこの世の法にはひっかからないかもしれないが、神様の法は破っている。』と警告されても、ピンときません。すでに的外れの状態だからです。
ただ神様から光が照らされ、今までの自分の状態が耐えられなくなり、罪が赦されたいとの願いが起こる時、また、こういう自分をそのまま受け入れてほしいと願う時、人間は初めて本来の主人である神様の前にへりくだります。その時、聖書はこう告げているのです。
“あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っておられます。” ヨハネ1:26
イエス様です。
その救いはこうです。イエス様は私たちの罪を全部引き受けられました。十字架の上で、死をもって捧げられたイエス様の御体と御血は、それにより頼む者を、神様の裁きと刑罰からおおい隠し、神様の怒りをなだめ、罪で汚れた魂を洗い潔めます。
自分の霊の命と引き換えに「魂と体」を神様から自分の所有にしてしまった私たちから、再び「魂と体」を買い戻し御自分の所有とするために、神様は、イエス様の霊の命を代価として信じる者に払われます。
ありのままの私を受け入れてくださる神様に対し、「自分中心」の私を否定し、イエス様にのみ頼み、自分の魂と体の全てをイエス様にささげ、明渡すなら、「イエス様が主人」の私に生き返ります。
V
神様が主人である人生とは、「神様がありのままの私を御自分のお働きにお用い下さる」人生です。
“働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中で
すべての働きをなさる同じ神です。”コリント12:5
この場合、一番の問題は「私に依然として問題や欠点が一杯あること、罪をやっぱり犯してしまうこと。」ではありません。 神様が私を用いられるように、「私が自分の方から、ありのままの自分を神様にゆだねるかどうか。」なのです。これが神様の一番の御関心なのです。
救いは神様がイエス様を犠牲にされて私たちを「所有」されることでした。そこまでされて私たちを所有されても、神様は私たちの自由意志を無視してまで強制的に私たちを御自分のお働きにお用いになることはありません。神様は、決して私たちの自由意志をいじることはなさいません。
なぜなら、たとえどんなに私たちが罪をおかしても、神様は御自分が造られた人間の価値と責任の重さを限りなく尊重されるからです。
“自分の魂(自分自身)を救おうと思う(自分のものとする)者は、それを失い(無用無益としてしまい)、わたしのために自分の魂(自分自身)を失う(用い尽す)者は、それを見いだす(自分自身を取り戻す)のです。” マタイ16:25
私たちの方で進んでするべきことはこれでしょう。
1、神様にだけ頼り、神様にだけ期待する。
2、神様が私を用いてお働き下さるように自分の全てを神様にささげる。
3、神様がお働き下さることを願う、「人」と「物事」の全てについて祈る。
4、すべてが自分から出て自分に帰らないよう、神様から出て神様に帰るよう、いつも聖書の御言葉に基づいて、人知を超えた神様の御働きを思い巡らし祈る。
※天に召された、ちいろば牧師・榎本保郎師のメッセ−ジ。「将棋の名人も、駒がなければ勝てません。しかし、駒さえあれば、紙の駒でも勝てるのです。高級な駒か、普通の駒か、名人には関係ありません。駒さえあればそれで勝てるのです。どんな駒でも勝て「神様のために」を第一にしていると、いつの間にか自分が主人になってしまうからです。「神様のため自分はこんなにもがんばっている。」となるからです。
「神様のために」は、目的です。「目的」を第一にしていると、主人がいつのまにか、神様から自分になってしまうからです。そして再び、「私が、自分のために」に逆転してしまうからです。
※手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」の中に、抜群の外科手術の腕前を持つ医者ブラック・ジャックが自分のメスを、研いでもらうために、彼が唯一尊敬し心服する研ぎ師の所に行く場面があります。研ぎ師は彼に三つの言葉を残します。
『天地神命に逆らうべからず。』
『おごるべからず。』
『医の道はよそにありと悟れ。』
漫画では、この3番目についてひとことも触れません。
手塚治虫氏自身がまるで、人間の理解を超えた真理と考えておられるかのように。
氏のこの態度に感銘します。これは、本来医の道も「神様が医者と医学と医術を用いて人知を超えたお働きをなさられる道」だったのに、人間が自分を主人としたために、「ただ患者の体を直す道」となってしまったことへの警告なのではないでしょうか。