新しい皮袋 第29号                                                       

 

「神 様 の 行 動」

                                                                     

  (祈り)「神様。自分を捨てて、神中心に生きられますように。」

 (目標)「神様はどのように行動されるのかを知り、信仰の基本とする。」

 

              神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。

           しかし、人は、神が行なわれるみ業を、 初めから終わりまで見きわめることは出来ない。

                                                                     伝道者の書3:11

 

 今や、宇宙から地球を眺めることができるようになりました。

宇宙から送られてくる地球の映像を見ながら、「あゝ、あの地球に今自分が生きているんだ。」と思うと不思議な気分になります。そして、この宇宙の中のたった一つの小さな地球の中に、これまた小さな人間という一種族が固まって住んでいることも痛感させられます。なぜ仲良く生きられないのだろうか、と。

 

 聖書は、神様が、(御自分が造られた)この世界と人間をご覧になりつつ、私たちに対して行動し、指示しておられることを人間が知るため記されました。

歴史の事実を知ると恐くなるほど、私たちは聖書の筋書き通り行動しています。

 

※第二次大戦中、ナチスに追われたユダヤ人を日本経由で亡命させるために、独断で二千通を超える通行ビザを発給した、当時リトアニアの副領事だった杉原千畝氏をたたえ、最近外務省は記念碑を設置しました。

 でも、外務省は終戦後、彼の戦時行為を非難し、帰国した彼から直ちに外交官の身分を剥奪したのです。以後、彼は沈黙の人となって世を去りました。

 

 ところが、聖書はすでに人間の行動についてこう告げているのです。

 

“忌まわしい者だ。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、「私たちが先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかったろう。」と言います。”                                                                    マタイ23:29〜30

T

 聖書を貫いている教えは、「神様が中心である。」ということです。

 聖書の中で楽しいシ−ンは、イエス様を裏切ってしまったペテロが、復活されたイエス様と再会した時、あわてて上着をまとって舟から湖に飛び込んだ所ではありません。

 楽しいシ−ンは、ここです。

 

“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

  昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。 神はそこに太陽のために幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出てくる花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。”

                                                                      詩編19:1〜5 

天も大空も、神様の栄光・神様のみ業を大声でしゃべっています。どんな学者も及ばぬ無限の知識を言葉で伝えています。その大きな呼び声は、全地に響き渡っています。そのあふれるほどの知識の言葉は、地の果てまで届いています。

 神様は、その地の果てに(夜という)太陽の(休む)幕屋を設置しています。太陽は、毎朝花嫁を迎えに部屋から走り出てくる花婿のように、喜びあふれて幕屋から出て来て、高橋尚子選手のように、忠臣蔵の勇士のように、昼の間東から西までのマラソン・コ−スを喜びあふれて走り続けます。

地の海も山も川も木々も、天空の歓喜の声を聞き、太陽の歓喜のランニングを見て、手を打ち鳴らし、こおどりして喜んでいます。(詩篇96:11〜1298:48)

 所が人間だけがこの声が聞けないのです。天を仰いでため息をついています。人生が神様中心なら、ここが間違いなく最高のブラック・ユ−モアでしょう。

 

 聖書の中で寂しいシ−ンは、ヤコブが逃げるよう家を出て荒野で石を枕に眠らねばならなかった所でも、ダビデが人の悪意と妬みにより点々と洞窟を逃げ回らなければならなかった所でも、ペテロが臆病心からイエス様を裏切り、心の居場所を失ってしまった所でもありません。

 寂しいシ−ンはここです。

 

 “主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで、主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。”     

              創世記6:5〜6

 聖書の中で恐いシ−ンは、一人の金持ちが死後、ハデス(苦しみの場所)に行ったという所でも、ある人たちが終わりの日にイエス様から、「わたしはあなたを知らない。わたしから離れて行け。」と言われる所でもありません。恐いシ−ンはここです。

 

“神を信じない者は、神を偽り者とするのです。”            ヨハネ4:10                                                                     

 聖書の中で悲しいシ−ンは、誰にも愛されない人がいる人生ではありません。また、神様に愛されていながら神様を愛さない人がいる人生でもありません。神様はそれでもなお人を愛され、救われるからです。

(もちろん、私たちが悔い改めずに生涯を終えた時には、私たちを悲しまれるでしょう。)

 

  一番悲しいシ−ンは、絶対にここ以外にありません。

 

 “さて、12時から全地が暗くなって3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。・・その時、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。・・地が揺れ動き、岩が裂けた。”

                                                                   マタイ27:45〜51

 私たちの救いのための唯一の方法として、御子を十字架につけなければならなかった御父が、顔をおおわれ、肩を震わされて慟哭されたことがはっきり分かります。その悲しみは、まさに天をおおい、地を貫いたのです。

U

 神様は、<神中心に>行動されます。

 

 神様は私たちを愛しておられますが、私たちの状況や状態を中心に行動されるのではありません。<神中心>に行動されます。神様は全知ですから、私たちの現状を全て知っておられますが、それでも、私たちの現状を中心に行動されません。<神中心に>行動されます。

 当然、私たちは神様が私たち一人ひとりに対してなさることを、いつも理解出来るとは限りません。時には全く理解出来ないこともあります。たといそうであっても私たちは神様を疑わずに信じ続けるように、と聖書は教えます。

 

“神を愛する人々、すなわち、御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。”

                                                                              ロ−マ8:28 

神様は私たちの全てを知っておられ、私たちにとって益となることしかなさいません。特に、神様に対し罪の責任を認めて悔い改め、罪からの救い主・神の御子イエス様を信じて罪を赦され、神様の子供とされた人々のためには、神様は全てのことを働かせて益として下さることを疑わずに信じ続けるように、聖書は私たちを励まします。

 でも、神様はその全ての働きを、<神中心に>なさるのです。

 

V

 特に私たちが理解に苦しむのは、余りにもひどい悪の存在という問題です。

あの時代に生まれたユダヤ人たちは、なぜナチスによって虐殺されなければならなかったのでしょうか。あの時代に広島と長崎に生きた人たちは、なぜ一瞬にして原爆で死ななければならなかったのでしょうか。なぜ、あの池田小学校の児童たちが、暴徒に刺されて死ななければならなかったのでしょうか・・・。あなたも私も例外ではなく、歴史上、無数に起こり続けているこのような悲劇。

 

 その時、神様は何をしておられたのでしょうか。神様が全能なら、人間の悪を止めることはお出来にならなかったのでしょうか。もちろんお出来になったはずです。なぜそうなさらなかったのでしょうか。

 

 聖書を読んでも、私たちはこのことについて、神様から完全な答えを教えて頂けません。聖書を読んで分かることは、ただ「神様は<神中心に>行動しておられる。だから人は神様を疑わずに信じ続けなさい。」ということだけです。

 だからと言って、聖書は悪の問題を避けている訳ではありません。むしろ、真正面から取り上げております。いや、聖書が取り上げているのは悪の問題ばかりと言える程です。また神様は、悪の責任が神様にあるように誤解されることも、全然気にしてはおられません。

 

 「なぜ、神様はアダムとエバを悪に誘惑した蛇なんかお造りになったのか。」

まさにこう問いたくなる人間の行動から、『この世の問題』が始まっていることさえも聖書は躊躇なく伝えております。

 

 事実、アダムは、エバに誘われて自分が犯した罪の責任を、「神様が、私にエバを与えたからいけないのだ。」という風に、間接的に神様のせいにして、神様を非難しているのですから。(創世記3:12)

 

 では、悪の問題に対して人間が当然のように神様に責任をかぶせ、神様を非難しようとする行動に、神様はどのように受けて立っておられるのでしょうか。

 

ヨブは正しい人だと神様から認められていながら、全財産の焼失・子供たち全員の死・一睡も出来ない肉体の苦痛というひどい体験を神様によって許されました。ヨブは神様に公開討論を要求します。神様とヨブとの間に立って、神様を弁護する友等とヨブとのやりとりは私たちの同情と共感を呼びます。

  誰がヨブの訴えを批判出来るでしょう。むしろヨブに対して紋切り型の答えをする友等を、あなたもヨブと一緒に非難することでしょう。そして、ヨブと一緒に神様をも非難することでしょう。憤慨しながら、「なぜ神様は、正しいヨブに悪を許されたのか。神様の答えを是非聞いてみたいものだ。」と。

 所が、神様はヨブの質問に悩まれるどころか、逆に神様の方がヨブに質問をして、ヨブに答えを要求されるのです。それも、これでもか、これでもか、と。

 

 「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めた時、あなたはどこにいたか。あなたに悟ることが出来るなら、告げてみよ。あなたは知っているか。誰がその大きさを定め、誰が測り縄をその上に張ったかを・・・。」(ヨブ38:3~5)

 

 「あなたはこんなことも知らずに、どうして悪に関するわたしの行動が分からないからといってわたしを非難するのか。」非難したヨブの方が徹底的に非難され、ついにヨブは口に手を当て、ひれ伏して悔い改めているのです。

 

Aイエス様は、「天の御国は、葡萄園で働く労働者を雇う主人のようだ。」と言われ、こんなたとえ話をしておられます。主人は、朝早く雇った人と一日1デナリの賃金契約をします。朝9時、12時、午後3時、5時にも契約して人を雇います。仕事が終わり、早朝組も5時組も同じ1デナリが払われたのを知って、早朝組が主人を非難します。「これは不公平ではないか。」と。

  所が、ここでも主人はその非難者に逆に質問をし、答えを要求されるのです。

 

 「あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか。(答えて見よ)自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。(答えて見よ)それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。(答えて見よ)(マタイ20:13〜15)

 

B私たちの誰もが神様を非難したくなるのはロ−マ人への手紙の9章でしょう。そこには、こんな理解に苦しむことが記されているからです。

 

 “その子供たち(エサウと弟ヤコブ)は、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの確かさが行ないによらず、召して下さる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女(リベカ)に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてある通りです。”

                                                               ロ−マ9:11〜13

神様は、人間の反論を十分承知の上で、御自分の行動のシナリオを人間に明かされ、続いてその反論を自ら堂々と口に出され、その質問には答えもせずに、ここでもやはり逆にそういう質問をする人間を徹底的に非難されるのです。

 

 “それではどういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。・・神は人を御心のままに憐れみ、また御心のままに頑なにさ       れるのです。するとあなたはこう言うでしょう。「それなのに、なぜ神は、(ご自分が頑なにされた)人を責められるのですか。誰が神の御計画に逆らうことが出来ましょう。」しかし人よ。神に言い逆らうあなたは一体何ですか。形造られた者が、形造った者に対して、「あなたは、なぜ私をこのようにしたのですか。」と言えるでしょうか。(答えて見よ) (ロ−マ9:14、18〜20)

 

人間が有限だから、神様は悪の問題にお答えにならないのではありません。神様は、善悪全ての領域で、全てを<神中心に>行動される超越者だからです。(誤解を恐れずに言いますが)当然、神様は神中心に悪でさえも用いられます。

                                               

W

だから私たちは安心出来るのです。神様が関わらない部分などないからこそ、神様を常に恐れると共に、今日も明日も安心していていい。悩まなくていい。神様は神中心に悪をも用いられる。神様は常に正しい。神様は全て益とされる。

 

 このことをよく知っていた人がヨセフです。(創世記37〜50章)

兄たちに妬まれ、奴隷としてエジプトに売られ、主人の妻の悪意で投獄され、獄中で仲間に裏切られ、何年も無実の懲役に服するという悪の連続体験の中で、<神中心に>行動しておられる神様を疑わずに信じて心安らかに、置かれた所でベストを尽くしたヨセフ。そしてその間の全体験が、やがて誰も予想もしなかった《エジプトの宰相就任》という帰結から役立ち始めていくのです。ハレルヤ!

 

“これらのことが起こったのは、・・それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。” ( コリント10:11)

神様にあいまいはない!

 

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