○新しい皮袋 第二号
「主人の変換」
(祈り)「天の父よ。私を本来の私に回復して下さい。
(目標)「私の主人を、イエス様に変換する。」
「大きな木を部的に見ろ。そこにある虫葉ばかりを見るな。こら、小僧。」 武者小路実篤
序
赤塚富士夫のマンガ、「天才バカボン」の人気の秘密は、ただ一言、「これでいいのだ。」の名せりふにあるといっていいでしょう。なんと、私達を楽にさせてくれる一言でしょうか.でも、ここには落とし穴があります。「私のあるがままの存在が受け入れられている。」という、受容の「これでいいのだ。」と、「私のあるがままの行動・状態が受け入れられている。」という、許容・肯定・是認の「これでいいのだ。」とは違うからです。イエス様は、姦淫の罪を犯した女性の存在をあるがまま受容されましたが、「あなたはどんな行動状態でもいいのだ。」とおっしゃったのではありません。「今からは罪を犯してはなりません。あなたは価値ある存在なのだから。」とおっしゃって、決して罪は許容されませんでした。いました。
T
自分存在価値を信じる(ーこれが正しい自信ー)ことは幸せの基本です。「私は価値がある」と信じられるのは、私が神に造られたからであって、能力や実力によって信じられるのではありません。神から与えられた能力を磨いたり、努力して色々な実力を身につけるのは、社会の中で自分の価値を確かめるためではなく、神に喜ばれるためです。神にとって有用・有益な者となるためです。実力を身につけるのは自信を持つためではありません。実力によって持つ自信は偽りの自信です。実力というのは、どうしても人との比較で確認する事になるからです。人との比較で持つ自信は偽りです。人より何かが出来るとか、何かを成し遂げたとか、高く評価されているとか。
これらは皆、相対的なものです。
U
さて、自分に問題や欠点があっても自分の存在価値は変わらないから、自分をそのまま受け入れてよい、と教えられても、どうしても疑問と抵抗が残ります。これを納得するためには、もっと聖書の正確な理解が必要です。
“私は私のしていることが分かりません。私は私がしたいと思うことをしているのではなく、私が憎むことを行なっているからです。 ですから、それを行なっているのはもはや私ではなく、私のうちに住み着いている罪なのです。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが無いからです。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだします。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主キリスト・イエスのゆえに、ただ神に感謝します。” ロ−マ7:15、17、19〜25A、
これは、イエス・キリストを信じたパウロという人の告白です。パウロは決してみじめな状態の自分の存在を憎んではいません。憎んでいるのは自分自身ではなく悪なのです。ですから、パウロは、自分自身(自分の存在)を憎むのでなく、嘆きます。自分の存在価値を堅く信じているからです。
ここで、パウロは、「私という存在」と「私の行動・状態」を区別していることが分かります。
すなわち、「私という存在」が、本来の「善を行なう状態」から、的外れの「悪を行なう状態」になってしまった、と嘆いています。存在価値が無くなったのではなく、行動・状態が的外れになってしまったのです。
私たちの的外れの行動・状態とは、こういう状態です。
●神と神のことばに従っていた、神の被造物である本来の私は、善をしたいという願いと善をしようという意志が起こる時、常に善をする力を神から与えられました。
●しかし、人間は一度堕落したために、エスに信頼し、イエスを主と告白して、イエスに従う弟子となった今の私には、善への願いと意志《心の法則》はあっても、私一人では善を行なう力はありません。なぜなら、私のからだの中には、悪への欲望と意志《罪の法則》が宿っています。
●善を行う力を神様から与えられない限り、この罪の法則《悪への欲望と意志》は、いつも心の法則《善への願いと意志》に戦いをいどみ、勝利します。だから、イエス様を信じていても、私一人ではいつもしたくない悪を行なってしまいます。
V
聖書は、人間の本来の状態についてこう教えます。
“主はこう仰せられる。
「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実を実らせる。」” エレミヤ17:7〜8
人間の本来の状態は、
1、人にも物にも自然・大地にも頼らず、期待せず、ただ造り主、治めぬし、与命主なる神にのみ頼り、期待します。
2、自分でなく、神が主人です。(心の王座に神様が。)
3、私は主人である神と一つ心で善を行なうことが出来ます。
これが、神と神の言葉に的を向けている人間の本来の状態です。 でも、聖書は、今の私達の状態 についてこう教えています。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者は呪われよ。そのような者は荒れ地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。」”
エレミヤ17:5〜6 “鼻で息をする人間を頼りにするな。”
イザヤ2:22
1、生けるまことの神以外に頼り、期待します。
2、自分が主人、自分中心です。(心の王座に自分が。)
3、自分一人では善を行うことは出来ません。(「心を尽くし神を愛せよ。」「自分のように隣人を愛せよ。」)
これが神から的を外している状態です。
即ち、私たちは「主人が誰か」で二つの状態に分かれます。 「神が主人」の状態か。「自分が主人」の状態か。
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たとえ、神の目に私の存在価値は変わらなくても、自分が主人である状態は深刻です。孤独であり、平安も自由もありませんし、神と交わることも出来ません。そして最終的に、自分の行ないに対して神の前に申し開きをしなければならないからです。
※知能に障害を持つ娘の母であった「大地」の著者パ−ル・バックの言葉。
「私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生はわたしにとって耐えられないものでした。私がその中心を少しでも自分自身から外せるようになった時、悲しみは容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解出来るようになったのです。」
もう一つ問題があります。
私たちは、この「的外れの状態」から「本来の状態」に、自分で自分を回復出来ません。「自分が主人」の自分が、自分で、「神が主人」の自分になれるでしょうか。それは丁度、自分を乗せたカゴを自分で引き上げようとするようなものです。
ですから、パウロは「私は本当にみじめな人間です!誰が、この死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか!」と叫んだのです。
X
「自分が主人」の自分が、「神様が主人」の自分になれる方法は一つしかありません。パウロは、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と告白しました。
私たちの罪を全部引き受けられたイエス様だけが、私達をあるがまま受け入れて交わって下さり、また私達の罪を赦して下さいます。ですから、私達が、自分から心の王座を下り、イエス様を自分の主人として心の王座に迎えれば、私たちは、自分が主人の状態から神様が主人の状態へ回復するのです。
“イエスは、彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」イエザアカイは、急いで降りてきて、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、皆は、「あの方は罪人の所に行って客となられた。」と言ってつぶやいた。” ルカ19:5〜7
ザアカイは、エリコの町でも札付きの人物、誰の目にも明らかな罪人、的外れの状態の人でした。にもかかわらず、イエス様は最初から、ザアカイをあるがまま受け入れておられます。それを知った時、ザアカイは自分から心の王座を下り、イエス様を自分の主人として心の王座に迎え入れることが出来ました。
“イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を否定し、自分の十字架を負い、そしてわたしに聴き従いなさい。” マタイ16:24
『自分を否定する』とは、自分から心の王座を下りることです。
自分の存在価値を信じて、助けぬしに任せるなら、助け主は、自分から心の王座を下りるのを助けてくださいます。