コリン新しい皮袋 第19号

苦しみ」

 (祈り)「神様。苦しい時、泣きわめいても私に平安と力を下さい。」

 (目標)「苦しみにより、神様なしでは生きられない人になる。」

    “私をキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。私はこう確信しています。死も、命も、・・今あるものも、後に来るものも、力ある者も・・・私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことは出来ません。“                                 ロ−マ8:35、38〜39

 私自身がなかなか立ち上がれない苦しみを体験すると、そんな私も身がすくんでしまうような苦しみに打ちのめされている人がたくさんおられることに、ただ口をつぐむしかない思いになります。そして、私は、まだまだ苦しみに対する聖書の御ことばが全然分かっていないことが分かります。

子供を殺された親の苦しみに、納得のいく答えがあるのでしょうか。事故や災害による死なら、納得のいく答えがあるというのでしょうか。

 人に言える苦しみもあります。理解してもらうだけで気が楽になるからです。でも、誰にも言えない苦しみがあります。全く言葉にならない苦しみです。

 「友が怒っている時なだめようとするな。悲しんでいる時慰めるな。」ユダヤの格言です。−ただ怒るしか、悲しむしかない苦しみだから、苦しんでいるまま受け入れてあげなさい。−簡潔ですが、迫害と苦しみの歴史を生き抜いてきたユダヤ人たちの、悲しみから生まれた格言のように思えます。

 イエス様は、兄ラザロを失って悲しむマルタとマリヤと一緒に、ただ黙って泣きました。(ヨハネ11:35)

 恐らく、言語に絶する苦しみに会い、この世で地獄を見た人に、正面から向き合えるお方は神様だけです。十字架に御自分の御子をつけるという苦しみを味わわれた父なる神様と、十字架に自らつかれるという苦しみを味わわれた御子なる神様だけです。

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「どうして、あの人でなく私がこんな苦しみに会わなければならないのか。」「どうして、私でなくあの人がこんな苦しみに会わなければならないのか。」「自分のまいた種の刈り取りだから。」「苦しまなければ、分からないことがあるから。」「この苦しみはきっと私の成長に必要だから。」 これで納得出来るでしょうか。 納得出来る人もいるでしょう。でも、もし納得なんか出来ずに、「神様は愛ではない。冷酷だ。」という思いにつぶされてしまうとしたら・・・。

※ヨブという人は、神様からお墨付きをもらう程正しい人でした。それなのに、財産も家族も健康も失うというひどい苦しみを受けました。これをヨブに、どうやって納得させられるというのでしょう。

「神様は愛ではなく冷酷だ。」と思って当然でしょう。あるいは、「神様は、幸せを楽しんでいたら、幸せの中でいい気になっていたら、必ずガツンと冷水を浴びせて人間を萎縮させる、意地悪で妬み深い神様なのだ。」と思ったとしても当然でしょう。

 実は、ヨブへの神様の愛は最後まで変わっていません。それ所か、神様はヨブの三人の友人が、善意からとはいえ、「これはきっとヨブが犯した何かの罪の罰だ。その罪を悔い改めれば苦しみは除かれる。」と言って、ヨブを苦しめたことを叱責されました。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかった。と。(ヨブ記42:8)神様はヨブの真実を最後まで認めておられるのです。

 でもヨブは、自分がなぜこのような苦しみに会わなければならないのか、最後に神様が登場されるまで納得出来ませんでした。ヨブの真実とは、真実に神様に文句を言い続ける真実でした。真実に泣きわめく真実でした。ヨブは、私たちと同じ小さくて、軽くて、脆くて、弱い人間でした。

 もちろん、納得出来なくても神様に苦しみの全部を委ねることの出来る信仰の人もいます。神様を疑わず、神様を恨まず、神様のふところに、苦しみと一緒に自分を全部投げかけることの出来る人がいます。

※中国で宣教したハドソン・テ−ラ−という人は、信仰による平安と力を体験して伝道し、多くの中国人を救いに導いた人なのに、その生涯の終わろうする数ヶ月間、非常に弱りました。その時のことをこう手紙に記しています。「私は弱って書くことも聖書を読むことも出来ない。私は祈ることも出来ない。私は小さい子供のように、神の腕に横臥して、信頼する。」と。

 でも、神様に苦しみを委ねることも出来ない程、苦しみにつぶされてしまう信仰者もいたことが聖書にも記されています。預言者エリヤもその一人でした。

主よ。もう十分です。私の命を取って下さい。」”   歴代誌19:4

イエス様も、言語に絶する苦しみを味わわれました。イエス様は、いよいよ十字架の苦しみに会う直前、深い恐れに捕われました。                 その時、イエス様は、御父に、この苦しみの杯を飲まないで済むように、計画を変更して下さるように、三度祈られました。この時、イエス様は、御自分の心の支えとして、三人の弟子にそばに居てくれるよう求めました。                                                       「わたしは悲しみの余り死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」マルコ14:33〜34)

しかし、御父の御心は変わりませんでした。十字架の上でイエス様は、その言語に絶するお苦しみを御父に委ねることも出来ませんでした。御父に委ねられるような苦しみではなかったからです。罪のない神様の御子が、全罪人の罪を引き受けられた苦しみですから。イエス様は、苦しみを極限まで味わいつつ、十字架上で泣き叫ばれました。「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」(マタイ27:47)

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 「なぜ、私がこんな苦しみに会わなければならないのか。」その理由は分からなくても、「なぜ、この世に苦しみがあるのか。」その原因は分かります。

 「生きる苦しみ」「老いる苦しみ」「病いの苦しみ」「死の苦しみ」。この四つに加えて更に、「愛する人と別れる苦しみ」「嫌な人と出会う苦しみ」「求めても得られない苦しみ」「あらゆる欲望に振り回される苦しみ」。これが、仏教の説く「四苦八苦」。釈迦は、この苦しみこそ不幸と考え、苦しみの無い幸福への道を考えました。そして、一切の苦しみの原因を「執着(渇愛)」と考えました。例えば、いつまでも生きたいと執着するから、生きることが苦しいのだ、と。

 聖書にも幸福な人たちが登場いたします。ところが、その幸福な人たちの多くは生涯、苦しみと付き合っています。苦しむことが、必ずしも不幸ではないことを、苦しみの無いことが必ずしも幸福ではないことを教えるかのように。

※ヨセフという人は、兄たちに憎まれて奴隷商人に売られ、さらに無実の罪で牢屋にぶちこまれ、彼の善意は無視されました。この後彼には、ドンデン返しの生涯が待っていましたが、仮に獄死しても彼は神様を恨まなかったのではないか、と予想される態度でした。(創世記37〜41章)                     それは、結局、ヨセフの幸福が「自分の喜び・栄誉」ではなく、「自分を造られた神様が喜ばれること、神様が栄誉を受けられること」だったからです。ヨセフは、自分の願いが実現する幸せよりも、自分が神様を喜ばせ、そのお喜びに自分もあずかる方が、はるかに幸せであることを知っていた人でした。

 聖書は、不幸の第一は苦しみと教えません。罪人になったこと、と教えます。苦しみは罪から生じたからです。                          私たちの先祖アダムとエバは、神様の喜び・栄誉のために生きるのではなく、自の喜び・栄誉のために生きることにしました。そして、不信仰と高慢によって神様のことばに反逆しました。苦しみはこの罪の結果だからです。                                                   ですから、苦しみの原因は分かります。でも、どうして、こんなひどい苦しみをあの人が受けなければならないのか。苦しみを受ける理由が私たちには分かりません。

 イエス様も、生まれつき目の見えない人について、弟子達から「どうして、この人はこんな苦しみを受けなければならないのですか。」と聞かれた時、それにはお答えにならず、ただ、「この人に神の業が現れるためです。」とお答えになられたのですから。

※ヨブの友人は、ヨブの苦しみに対し、因果の法を説いて神様の赦しを受けるために悔い改めを勧め、ヨブをさらに苦しめました。(仏教なら、因果の法を説いて苦しみからの解脱のために悟りを勧めますね。)所が、もう一人の友エリフ、こう言ってヨブの信仰を支えました。

 “神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中彼らの耳を開かれる。"       ヨブ36:15

「神様は、きっと苦しみの中であなたをさらに救おうとしておられるんだよ。」ひどい苦しみの中で、この御言葉を信じられる人は何と幸いな人でしょうか。

“苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれで、あなたのおきてを学びました。あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にも勝る者です。 詩編119:71〜72

 ひどい苦しみの中で、ここまで出来る人は、何と幸いな人でしょうか。

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 ただし、ひどい苦しみによって、はっきり体験出来ることがあります。不安、恐れ、絶望、孤立、悲しみ、恨み、怒り、・・・自分の中にあるものが全部出てしまう、という体験です。気も狂うような惨めな状況の中で、孤独で弱い「自分という存在」を生々しく実感する、という体験です。                              自分のために命を捨てて下さったイエス・キリストの愛を実感するまでは、自分の存在感を最も実感出来るのは、実は、苦しみなのではないでしょうか。

※今、多くの青少年が、「僕は透明な存在です。」「自分が生きている実感が ない。」「自分の存在も、周りの存在も 現実感がない。」と言い始めました。これは、『出来るだけ子供に苦しみを与えないよう に。』という教育方針で子供たちが苦しみと向き合わないで育てられることも一因かもしれません。

 神様は、御自分の御子を人間として地上に送られ、誰も味わったことのない苦しみを極限まで体験させられました。ですから、今、イエス様は、全ての人の苦しみを理解され、共感され、同情しておられることだけは信じられます。                                               “主は御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがお出来になるのです。ヘブル2:18

 それだけでなく、神様は、御子を私たちと一体にされて十字架につけられ、私達と一体で墓に葬らせ、私たちと一体で復活させられました。              イエス様を信じ、罪を悔い改めると、罪の赦しが自分のものとなり、神様との和解が成立します。それだけでなく、これからは、自分が一人でガンバル私ではなく、「主の中で生きる私」「私の中で生きて下さる主」となります。思いっ切り泣きわめいても受け止めてくれるお方との「二人で一人の関係」です。

“私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。”                    ガラテヤ2:20

 私たちは、自分の弱さを認めていてもなお、「私はそんなに弱い人間ではない。無力な人間ではない。私だって、自分でヨセフのように神様を喜ばせることがきっと出来るはずだ。」と信じているものです。弱さ、無力を全面的には認めたくないものです。人に弱さを見られないようにするのがその証拠です。

 そうであれば、私たちは、頭では「神様にのみ頼るべきだ。」と分かっても、私たちの魂は必ず抵抗しているはずです。100%の無力を認めない人が、100%神様に信頼することなどありえないからです。

 「謙遜の幹」の下に「高慢の根」を持つ私たちに、自分が100%無力であることを認めさせる良き教師は、御聖霊と苦しみだけなのではないでしょうか。

“わたしたちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついに命さえも危うくなり、本  当に自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした。”                  Tコリント1:8〜9

『患難の溶鉱炉にある間に、神の御心の鋳型に入れ。』こそ真理なのでしょう。

そう言えば、鋼鉄になるには火で溶かされ、水で冷やされ、ハンマ−でたたかれ、砥石でこすられ・・・。全部、受け身です。受け身なら誰でも出来ます。信仰さえあれば出来ます。大きな希望です。

 思いっ切り泣きわめいても、最後は苦しみを感謝出来る人になれますように!

若くして事故で下半身がマヒしたジョニ−・エレクソンさんのことばです。

 「残されたのは、無力な私の体と神だけでした。神だけで、他に何一つ頼るものを持っていない、そんなぜいたくな人はそういません。私は、それはすばらしいぜいたくだ、と信じています。」

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