新しい皮袋 第一号
「自信=自分の価値を信じること」
(祈り)天の父よ。私たちの自信を回復してください。
(目標)自信を腹(丹田)に据える。
“わたしの目には、あなたは高価で尊い私はあなたを愛している”
イザヤ43:3
序
「自分は価値がある」と信じる人と、「自分は価値がある」と信じない人とで、人生は大きく違ってきます。当然、救われ方も違ってきます。
第一号は、この微妙で重要な問題を取り上げます。
T
もし私たちが、親や家族から、「あなたは価値のある、大切な人です。」と言われて育ったなら、私たちは自信という大切なものを持つ人になります。人生で何を失っても、自信だけは失われません。あるがままの自分を肯定し、受け入れ、人と比較せず、神様が自分に託して下さった能力を、人の幸せの為に用いることを自然に考えます。人生の大舞台でも自分を見失いません。どんなにつらい体験をしようと、不慮の事故や災い、病気の為に、命短き生涯であったとしても、自分の価値を信じられる幸いは、必ずこれを乗り越えさせてくれるでしょう。
これを読んでおられる方の中で今述べたことを体験していらっしゃる方がおられるなら、その方は、いくら親や家族に感謝しても感謝しすぎることはありません。
厳しいのは、「自分は価値がある。」と信じられないで育った場合です。その場合、何を持ったとしても、肝心の自信がありません。すぐ自分を見失います。どんなに努力して何かを成し遂げたとしても、決して自分に満足が出来ず、ひたすらがんばり続けることになります。たとえ、この世で成功しても、また、人がうらやむような生活を送っても、自分も人生も、軽くはかないものに感じてしまいます。そしてこの感覚は、終生つきまとって離れません。
※例えば、移り行く自然や出来事を見て、人生のはかなさ・虚無を感じる人は、実は、人生はかないからではなく、自分の価値を信じられないからです。自分の価値を信じる人なら、たとえ自然や出来事が移り行こうと、自分の回りのすべてが無常に見えようと、価値ある自分の人生」を虚無とは感じないでしょう。
U
自信と自慢は違います。自信は自分の価値を信じることですが、自慢は人と比較して高ぶることだからです。(自信とは自分に頼る自己信頼でもありません。それは自惚れです。)私たちは人間の価値を比較してはいけません。人間の価値は同じだからです。
能力も比較してはいけません。神様はもともと一人々々に違う能力を(従って、違う使命を)託しておられるからです。
“彼は各々その能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント。もう一人には1タラントを渡し、それから旅に出た。”
マタイ25:15
ですから、努力は比較され、評価されてもいいですが、能力は比較してはいけません。(残念ながら、現在のテストや競技でこれが守られることは殆どありませんが。)
私たちの多くがこの世で教えられてきたのは、『人間の価値は、能力・成果・人格的立派さで決まる。』というものでした。自信を持っていない人は、もろにこの教育の影響を受けます。「あの人は、あれだけ出来るのに、私の出来ることはほんのわずかだ。私には問題や欠陥がたくさんある。だから、私の価値なんて大したことはないに決まっている。』と考え易くなります。
V
聖書は、私たちの価値観を正しい価値観に立ち返らせます。
“それはあなたが私の内臓を作り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私にくすしいことをなさって恐ろしいほどです。私の魂はそれをよく知っています。私が密かに作られ、地の深いところで仕組まれたとき、あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物に全てが書き記されました。私のために造られた日々が、しかもその一日もないうちに。
詩編139:13−16
「神様が私をお造り下さった。私のために時間をかけ、心を込め、知恵と力、あらゆる労をお注ぎ下さって私をお造り下さった。そして、神様は私を愛しておられる。」
これこそ、私たちの価値の根拠です。
神様が造られた私たちを、神様は無条件で愛しておられます。神様にとって私たちは無条件で大切な存在です。全宇宙も全く比較にならない、大切な宝です。
能力があるから、大切な(価値がある)のではありません。また、能力があって役に立つから愛されるのではありません。神様がお造りになられたから価値があり、神様が愛されるから価値があるのです。
※ここで、童話「星の王子様」の名文を味わってみましょう。
(王子様)「そりゃ、僕のバラの花も何でもなく、そばを通って行く人が見たら、あんた達と同じ花だと思うかも知れない。だけどあの一輪の花が、僕にはあんた達みんなよりも大切なんだ。だって僕が面倒みてあげた花なんだからね。僕のものになった花なんだからね。」
(わたし)「王子様を見ると涙が出るほど嬉しいのも、この王子様が一輪の花をいつまでも忘れずにいるからなんだ。バラの花の姿がランプの灯のように、この王子様の心に光っているからなんだ。
(王子様)「もし君がどこかの星にある花が好きだったら、夜空を見上げる楽しさったらないよ。どの星もみんな花で一杯だからねえ。」
※人間は、神様に似るように「神様のかたち」に造られた、と聖書は伝えます。霊性・知性・感性・自由意志において神様に似ているということでしょう。この神様のかたちは、人間にだけ与えられた機能・資質です。これが、動・植物との決定的違いの証拠です。その意味に限るなら、人間と動・植物との価値の違いの根拠になります。しかし、人間そのものの価値の根拠は、ただ神様の創造と愛だけです。それで十分です。なぜなら、「神様のかたち(人格的機能・資質・)」まで価値の根拠加えると、むしろ誤解をもたらす可能性があるからです。各人の人格的機能や資質の違い(差)を、価値の違い(差)と考えてしまい易くなり区別でなく、差別になりやすいからです。
Y
では、自分に、問題や欠陥がある場合はどうなのでしょうか。もちろん価値は変わりません。たとえ神様から怒りと裁きと刑罰を受ける人間 になってしまったとしても、価値は変わりません。なぜなら、価値の根拠は「神様の創造と愛」だからです。神様の造られたものは、傷物になろうと、神様にとって大切な宝であることは変わらないのです。むしろ、大切で価値があるからこそ、罪に対して神様は怒り、裁き、罰されるのだ、と理解し納得すべきです。(価値のないものなど、怒っても、裁いても、罰しても意味なんかないでしょう。この真理は、自分の価値を信じられないで生きてきた人にとっては、どれほど大きな救いでしょうか。
ただし、価値は変わりませんが、神様のお役に立つことは出来なくなります。“全ての人が迷い出て皆共に無益なものとなった。”(ロ−マ3:12)とあるように、全ての人は、神様にとって無益・無用な人間になってしまいました。でも、無価値な人間になったのではありません。価値は変わらないのです。「価値(大切)」と「有用・有益(役に立つ)」とは違うからです。
○自分の価値について私たちが誤解しやすいのは、例えば宝石をイメ−ジするからでしょう。傷ついた宝石は価値が落ちます。それは人間にとっての価値だからです。人間の場合、どうしても、「自分にとって役に立つものが自分にとって大切。」となりやすいからです。でも他の人にとって役に立つものについては、必ずしも自分にとって大切なものとはなりませんね。でも、どうして人間の場合はこうなるのでしょう。それは、神様は創造者(絶対者)ですが、人間は被造物(相対者)だからでしょう。
○でも、本当の価値観は、実は人間も分かっているのではないでしょうか。夫が妻を大切に思うのは、役に立つからではありません。愛するからです。子供の時、私たちは大切なビ−玉や人形を机の中に大事にしまっておきました。大して役に立つ訳ではなかったのに。でも、自分はそれをとっても愛したでしょう。
※“人はみな草、その栄華は草の花のようだ。”というみことばも、「人間の無価値」を言っているのではなく、「罪人となってしまった人間が無益となってしまった」ことの強烈な表現です。
※コリント1:28に、“また、この世の取るに足りないものや見下されているものを、神は選ばれました。すなわち、有るものを無いもののようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。”とあるのも、この世の物差しで「価値有り」と評価され、たたえられている人を辱しめるために、神様は、この世の物差しで「無価値に等しい」と評価されている人を選ばれる、という意味です。
※出エジプト4:11に“誰が人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。”とあります。まさに、機能障害者の存在ほど、「神様の人間に対する価値観・愛」が、この世の小賢しい理解や理屈を許さない、「絶対的・超越的な価値観・愛」であることを、この世に対し宣言しているものはありません。明らかに、全ての機能障害者は、(人間の愛ではなく)神様の愛のメッセンジャ−です。
※イエス様が病人や機能障害者を癒されたのは、病気や機能障害がその人の価値を低くしているのを憐れに思われたからではありません。病人であろうと、機能障害者であろうと、神様にとって同じ大切な人であることを、全人類に対し、癒しの愛で証しし続けておられるのです。
“それどころか、体の中で比較的に弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものなのです。” コリント12:22
X
ですから、自分の価値を信じられない人の場合、救いは切実です。なぜなら、自分の価値を信じられない上に、更に自分に問題があることに気づきますから、ますます自分を受け入れることが出来なくなるだけでなく、そういう自分を受け入れることは罪であるとしか受けとめられないからです。人生でこれ以上の苦しみ、悲劇があるでしょうか。
自信のない人の救いは、非常に困難な問題をはらみます。救いの求め方がすでに的外れだからであり、それを本人は気付きにくいからです。自信の無い人の救いは先ず、自分の価値の正しい理解・納得によって、間違った先入観・固定観念を取り除き、正しい価値観に立ち返ることから始めなければなりません。
《その方の救いのための助言はこうです。》
1、神様が造られた私は、問題があろうとなかろうと無条件で愛されており、従って、私は神様にとって無条件で価値がある。その証拠に、神様は、私の身代わりに御子イエス様を十字架につけられ、よみがえられた。また聖書には、「一人の罪人でも、救われた時には天で大きな喜びがある。」と記されている。
2、だから自分も、自分の価値を信じ、神様に無条件で愛されていることを信じていいのだ。いや、信じなければいけないのだ。なぜなら、自分の価値と神様の愛とを信じないことは、自分を造られた神様を侮辱する罪を犯していることになるからだ。それなら、私はこれからは自信を持って生きよう。
3、自分の価値と神様の愛とを信じないことが罪であることが分かれば、自分の生き方があらゆる面で的外れであることが分かってきます。そして、イエス様の十字架の死と復活が、私の全ての罪の赦しの為であることが分かってきます。それで、救いについて全てをイエス様に頼り、イエス様を今生きておられる主と告白して受け入れます。
これが解放(いやし)であり、赦し(神様との和解)です!
では、自分の価値を信じられる人は救われる必要はないか、というとそうではありません。もし価値ある自分に問題があることに気付くなら、やはり苦しみが始まります。それは、価値ある自分が問題のある自分をそのまま受け入れる矛盾の苦しみです。「価値ある自分が、こんなひどい自分をそのまま肯定するのは欺瞞ではないのか。」と。だから、自分を受け入れようとすればする程ますます苦しみが増します。自信のある人も救いが必なのです。その救いは、「どうして価値ある自分に問題があるのか。」を知ることから始まります。
《その方の救いのための助言はこうです。》
1、私は自分の価値を信じられるのに、その自分に問題があるのは、自分と造り主なる神様とのつながりが切れているからなのだ。神様を自分の心の王座に迎えて自分の主人とせず、自分を主人とし、神様の判断で行動するのでなく自分の判断で行動し、常に自分を第一とし、あらゆる不義をもって神の真理を否定しているからなのだ。すなわち、私が罪人だからなのだ。しかし、イエス様は私の全ての罪を引き受けらて十字架の上で死なれ、三日目に復活された。
2、もし私がイエス様に救い主として頼り、イエス様を今生きておられる告白して受け入れるならば、私は自分の価値を信じられるようになるだけでなく、救われた自分をあるがまま受け入れることが出来るようになる。もう矛盾に苦しまなくていい。
これが赦し(神様との和解)であり、解放(いやし)です!