エッセイ「目をあげて」 No21

「ソリ・デオ・グロリア(唯神に栄光あれ)」」

 一人の盲人を見て、弟子たちはイエスに「彼が盲目に生まれついた原因は何?」と聞きました。イエスは、「彼が盲目に生まれついた目的は、神の業が彼の中に現れるため。」と答えました。

 エッセイを終えるに当たり、目を上げて見ると、ささやかな私の人生にも神の業・神の栄光が見えて楽しくなります。

どうして私は、今この時代に、この日本の地に、この現住所に、この家族と、この教会の兄弟姉妹たちと、この同労の友たちと生きているのでしょう。

それは、私の場合は牧師になったからです。どうして牧師なんかになったのでしょう。なる気はなかったのに大学時代、就職活動直前に神が私に語りかけられたからです。どうしてそんな事態に陥ったのでしょう。大学に入学してすぐ学内集会で聖書の御言葉を聞いて救われてしまったからです。

どうしてそんな集会に出ようと思ったのでしょう。高校の英語の教科書にたった一行、聖書の御言葉(ヨハネ15:13)が記されていて私の心を打ったからです。また高校時代、一人の友がある日一緒に歩いていて突然、「猶原。お前は神の愛を信じるか。」と聞いてきたからです。もちろん、無神論の私は彼を馬鹿にするように否定したのに、「おれは信じるよ。」と言ったからです。また、受験勉強の頃、火鉢の上にまたがって、トルストイの小説「復活」を徹夜して読み、その最終章に出てくる『神の愛の共同体』に言い知れない郷愁を覚えたからです。・・・きりがありませんね。そう、きりがないのです。

しかも、この内どの一つが欠けても今の自分の存在も立場も状況も無いなんて、何とこの人生は楽しく出来ていることでしょうか。

「あの原因がこの結果を。」という因果律なんかないのです。それなのにいつも何かを誰かを原因にしたいのは、人間中心に生きているからです。弱さも失敗も罪の絶望でさえも、もし神中心に生きるなら神の業が現れる。全て神の栄光となる。ああ、この人生は何と、何と楽しく出来ていることでしょうか。

“すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝 が満ちあふれ、神の栄光が現れるためです。” Tコリント4:15