エッセイ「目を上げて」NO19
「裏の裏」
月に一度、日曜の夜、施設に一時滞在している中学生、高校生たちにイエス様のお話をします。
どうしても家庭にいられなくなった子たちです。家庭にいない方がいいと判断されて来た子。自分から判断して来た子。その事情を私に知らされることはありません。
集会中すぐ眠ってしまう(ふりをしている?)子もいれば、おしゃべりし続ける子もいれば、黙って聞いている子もいます。でも、時々何となくみんな静かに聞いてくれる時があります。
以前「恵みの雨」に載ったお話をした時もそうでした。一人の男の子がペットショップで、「この小犬は片足が悪いから他の小犬にしたら。」と言われても、「その小犬がいい。」と言い続け、「じゃあ、この小犬はただであげるよ。」と言われても、自分の持っていたお金を全部出して買い取った、というお話し。実は、その男の子は片足義足だった、というお話し。みんな、シーンとして聞いていました。
それから、私が中学・高校の反抗期、親を出来るだけ困らせてやろうと、ある時から一言も口をきかない決断をし、それをかなり長い間断固実行したことを話している時もそうでした。その時、私は昔のことを思い出してつい熱くなり、思わず、「あの頃は、親を出来るだけ苦しませてやることが私の快感・喜びだった。」と言った時、静まり返った彼らの中から突然、「そんなことないよ!」という声が飛んで来たのです。
どんなに自分にひどいことをする親であっても親を受け入れている。素直に、「お父さん、お母さんが好きだ。」と言いたいのに言えない。言わせてくれない。その悲しみをどう表現していいか分からず、結局親を憎んでしまう。それが自分にはどんなに悲しいか、痛いか。親への憎しみは「表」。親に愛されない悲しみは「裏」。それでも自分の親を愛している、その悲しみ痛みこそ「裏の裏」。
最近、行く度に集会に出席する子がふえてきました。
“私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。” 詩篇27:10