福王子神社

 福王子神社は、第58代光孝天皇の皇后班子女王(桓武天皇の孫娘)を祭神としておまつりしている。御室仁和寺の守護神としてその歴史は古く、昔は福王神とか福王子宮とも呼ばれていた。

今から1100年の昔、光孝天皇が仁和寺建立に着手され、完成を見ず亡くなられた後、その意志を継いで第59代宇多天皇が母君の班子女王とともに仁和寺を造営された。班子女王は、非常に気軽に散策や買物に出かけられ、庶民に親しまれた方であったと記録に残されている。

 西暦900年(昌泰3年)に班子女王が亡くなられ、頭陀寺に葬られたが、その陵墓がこの辺であったところから、この地に班子女王をまつる福王子神社が造営されたと伝えられている。その後、平安時代から鎌倉時代初期にかけ、特に歴代の仁和寺法親王から厚い御崇敬を受け、仁和寺の鎮守神として奉られてきた。

同じ境内にある社(ぶこうしゃ)は、延喜年間に丹波の氷室から、毎年夏に氷を御所に献上するならわしとなっていたが、ある年、氷を運ぶ役夫が先を急ぐあまり途中この辺で息絶え、この霊を鎮めるため912年(延喜12年)に建てられた社である。この社が福王子の地名の由来といわれている。



また、本殿と社との間に「さざれ石」が祀ってある。
これは山越にある「君が代」の「さざれ石」の1つを移してきたものであると伝えられているが、その時期は定かではない。




 当時の社殿は1468年(応仁2年)、応仁の乱により御室仁和寺の全ての堂塔伽藍とともに焼失する。現在の社殿は1644年(寛永21年)徳川3代将軍徳川家光公の寄進により、仁和寺の宮、覚深法親王が五重塔、仁王門等の堂塔伽藍の再建整備と同時に造営されたものである。

その後も仁和寺とのつながりは続き、毎年10月に執行される秋の大祭の神輿巡行の神事の際に、仁和寺に参内し、奉幣を受ける儀式が今も往時のままに行われている。
福王子神社は仁和寺の守護神であるとともに、庶民に親しまれた班子女王の遺徳を偲び、地元の御室村、福王子村、鳴滝村、班子女王の父が住んでいた中野村(現在では常磐西部)、常盤村、山越村を含む旧六ケ村(西は広沢ノ池、南はJR山陰線、東は嵐電妙心寺駅附近)地域の産土 の大神として今日に至っている。

福王子神社の建造物は古式豊かで往時の姿を今もなおそのまま保存されている貴重なものであり、また、造営当時の棟札が神殿より発見されたことにより、1973年(昭和48年)3月に国の重要文化財に指定された。

重要文化財は
神殿  
一間社春日造
拝殿  
徳川時代初期の入母屋造
鳥居  
明神造り石鳥居としては
京都に
二つと無いもの
徳川時代初期の代表的作品

〇棟札及び石燈籠弐基・・・・造営当時そのままの棟札で記念すべきもの

神社の建物一式全てが国の重要文化財に指定されている神社は、京都でも他に例がない。

以上のように、福王子神社は仁和寺との古いつながりを持ち、皇室と深い関係をもった神社であり、紋には皇室の16紋菊が使われている。

        参考資料:福王子神社の沿革より(文責 宮司 村田健史)

 2000年(平成12年)10月には1100年祭が行われ、舞楽や雅楽、そして五世井上八千代さんによる京舞が奉納された。

2002年(平成14年度)には、本殿の丹塗りの修復も行われ、当時の面影が見事によみがえりました。


木賊とくさぶき(かえるまた)

福王子神社本殿・拝殿の屋根は木賊

国の重要文化財福王子神社の本殿、拝殿の屋根は360年前1644年(寛永21年)に建てられた時は、「木賊」と呼ばれていた工法であることが修理工事に伴う調査でわかる。

福王子神社には江戸時代の修理記録は全く残っておらず、仁和寺にこの神社の修理を示す資料がありました。「仁和寺諸堂社(しょどうしゃ)御修復仕様入札帳」という今から300年前の資料です。この資料によると江戸時代には、現在も使われている瓦葺(かわらぶき)桧皮葺(ひわだぶき)・こけら(ぶき)の他に3(とち)(ぶき)2木賊(とくさ)(ぶき)の建物が多くあったことがわかりました。それらの建物は大きさや、使われ方によって屋根材を変えていたのです。

木賊(とくさ)(ぶき)はおもに水に強いさわらの木を使い屋根に葺きます。福王子神社の修理は360年前と同じ工法で1100年祭を前に行われ当時の姿が今によみがえった。


修復された本殿の(かえるまた)

(かえるまた)とは建築用語で、上方の荷重を支えるための部材で、下方が開いて蛙の股のような形をしているところからきている。しかし時代が移るにつれて装飾用となったものが多い。

 福王子神社本殿の(かえるまた)2002年に川面技術研究所(右京区鳴滝本 町)によって修復され鮮やかによみがえっています。