妖怪コレクションにはまる
妖怪嫌いな人の為に、バックミュージックにかわいい曲を選びました。
その1 はじめに
先日、”百鬼夜行妖怪コレクション”なるお菓子が発売された。妖怪フィギュアが”おまけ”として梱包されている飴菓子である。容量的に箱の中身の約8割をフィギュアが占めるので、フィギュアが”おまけ”なのか飴が”おまけ”なのか悩むところではあるが、製造元がセコイヤチョコレートでお馴染みのフルタであるので、やはり飴がメインなのであろうか。しかし、この手の商品の購入目的は味覚や食欲を満たすことではなく、全種類の”おまけ”を入手するという野望を実現することであるため、ビックリマンチョコレート事件で代表されるように”お菓子部分”がないがしろにされるケースが多い。このページでも”お菓子部分”については語らないが、”お菓子部分”の開発に携わったフルタ社員の努力に応えるため、あえて冒頭で一言触れておきたい。”私は飴を全て娘に与えました。娘は大変よろこんでました。”
その2 出会い、そして・・・
店頭で初めてこの商品を発見した時、妖怪ファンである私の血は湧き肉は躍ったのである。”ついにでたか!”興奮で震える右手をのばして一番身近にあった箱をつかみ、顔の前面にまで拾い上げると、なぜか左手を腰にあてながら、感嘆の溜め息を漏らしたのである。駅でビン牛乳を飲み終えた直後の中年男性の姿そのものである。妖怪は、普通の人にとっては怖くて気持ち悪い存在である(らしい)。したがって、妖怪関連に対する需要は少なく、妖怪グッズはほとんど存在しない。そのような中、かねてより待ち望んでいた、私のようなごく一部のマニアの欲求を満たしてくれる”モノ”が世に現れたのである。”これは家財道具を質に入れてでも全種類集めるしかない。”私はそう決心したのである。 私はパッケージを見ながら”百鬼夜行妖怪コレクション”に関する情報を蓄積していった。
次に、蓄積された情報を元にコレクト戦略をたてた。
卑劣な男とお思いだろうが、悲願達成のためには手段を選ばぬ非情さが必要である。
かくして、妖怪フィギュア収集大作戦の火蓋が切って落とされたのである。
その3 戦い
穴の中を凝視する、箱を振る、天井の照明にかかげて透かす、匂ぐ、手をかざして念力を使う、なんとか3種類のバージョンを見極めようと試みるがいずれも徒労に終わった。とりあえず、4種類4箱を購入した。帰宅後開封すると、なんと、4個のうち3個までもが夜行タイプであり、残りの1個は普通彩色タイプであった。この時ある事実に気付いたのであるが、夜行タイプは希少価値があるのかもしれないが、美しさや精密さ等どれをとっても普通彩色タイプが勝っているのである。私は戦略を変更し、普通彩色タイプのみをコレクトすることにした。この日の夜、私は闇夜に妖しく光る妖怪達を眺め一人ニヤニヤしていると、ふと気がつけば日付が変わっていたのである。妖怪の仕業であろうか?
翌日から毎日コンビニに通う日が続いた。”30を過ぎた男”が毎日子供向けのお菓子コーナーでウンコ座りをしながらお菓子を物色している姿は、はっきりいって異様であったろう。ある日、頻繁に訪れていたコンビニの女性店員と目が合った時、彼女はアンタッチャブルなものを見てしまったかのようにすかさず目をそらしたのである。私は焦りを感じた。”はやくミッションを完了しないと社会的信用を無くしてしまう。”それでも私はあきらめなかった。プレッシャーと戦いながらも奮闘する私に天が力を貸し賜うたのであろうか、数日後、私はある法則を発見したのである。それは、普通彩色タイプは他のタイプと比べて重いということである。しかも、持つだけで判別出来るほど明確に感じることができてしまうのである。もし、このページを読み自分もコレクトしてみようと思われた方は参考にしていただきたい。この発見後、100%の確率で普通彩色タイプを引き当てていき、このお菓子と巡り会ってから約2週間で、普通彩色タイプの全種類をゲットしたのであった。
その4 最後に言い訳
私が妖怪好きであるのにはいくつか理由がある。
まず、妖怪の正体をあれこれ考えるのが楽しいのである。現存する妖怪のほとんどは江戸時代に創られたらしい。当時の知識では説明できない不思議な事や物は、何か得体の知れない”モノ”の所為とされ、その”モノ”に名前や形、性質を付加することで妖怪は誕生する。つまり、全ての妖怪は、それが誕生する”背景”がある。その”背景”こそが正体である。現代の事件を例にとると、最近少年の犯罪が目立つ→不思議なことに犯罪を起こす少年達の年齢は17歳である→きっと人知を超えた”モノ”の仕業にちがいない→その”モノ”は17歳の少女の姿をしており、交際を拒んだ少年にのりうつって悪事をはたらく妖怪である→その妖怪の名は”南沙織(注 ヒット曲は17歳)”である。これで、妖怪”南沙織”の誕生である。現在解明されている(と思われる)妖怪の正体は、江戸時代の、現代でいうワイドショーねたから政治(お上への批判等)まで多岐に渡っており、とても面白いのである。さらに、時代背景のみでなく、人間が持つ本質(畏れ、怒り等)や文化そのものも妖怪の正体となりうる。
次に、妖怪のもつ風情である。西洋の化け物(吸血鬼や狼男等)と比較すれば明白であるが、日本の妖怪は恐いけれどどこか愛嬌がある。同じ闇の住人にもかかわらずこの差は何なのだろうと考えた事があるのだが、私は、多分リアリティーの差ではないかと思う。例えば、吸血鬼は架空の生き物であるが、その話を聞いた者に妙なリアリティーを与える。吸血鬼の吸血行為やその理由、さらに生い立ち等どれをとっても”ありえる”と思ってしまうのである。その点、日本の妖怪にはほとんどリアリティーが無い。これも例えとなるが、”ぬらりひょん”という妖怪がいる。こいつは忙しい夕方の刻に現れて勝手に人の家に上がり込み、座敷に座ってお茶を飲みながらのんびりするという妖怪である。商人のような姿をしていて、上がり込んだ家の主人の湯呑や煙管を勝手に使うのだが、家人は忙しいので主人だと思い誰も気付かないとのことであるが、こんなやつ(妖怪)はいるはずがない。仮にいたとしても、それは多分近所のあつかましいおっさんである。この妖怪の誕生背景は容易に想像できる。−−−”自分の知らない間に自分の持ち物を勝手に使われた大店(越後屋等)の主人が、”誰だい?私のものを勝手に使った奴は?”と店の者に尋ねるも誰一人名乗りでない。しかたがないので個々に尋ねるも、皆嘘をついているようには思えない。あっ。そうか。きっと妖怪の仕業だ!”−−−ってなふうである。正体は、おかみさんか、放蕩息子ってところであろうか?ここまで愛嬌のある妖怪は珍しいとしても、日本の妖怪は、説明できない不思議で怖ろしい現象をリアルに伝えるのではなく、その現象を妖怪という”媒体”を通して恐怖を和らげるために創造されたものではないかと思う。もちろん、怖ろしい現象の代替物であり恐いモノであることには違いないのであるが、その怖ろしさをリアルに伝えるだけであれば妖怪になれないのである。ここに、古き良き日本の”イキ”を感じるのである。
最後に、なんといってもそのビジュアル(視的要素)である。私には怖ろしいというより”ひょうきん”に写るのである。これは、感性に依るところであり説明はできないが、過去に妖怪を見ることを避けてきた人は(妻はいまだにそうである)、一度百鬼夜行で妖怪達と戯れることをお薦めする。
以上のウンチクで、妻に無駄遣い(これは個人の価値観に依る所が多い。私は無駄遣いだとは”絶対に”思っていないが、妻からすれば私の趣味に対する出費はみな無駄遣いとなる。)のいいわけをするともに、妖怪研究の”楽しさ”を説明したが、”気持ち悪い”の一言で片づけられてしまったのである。
おまけの妖怪達
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画像はフルタさんのホームページより。(ちょっと手を抜きました・・・)