カイロスは日本語で「時」と訳され、新約聖書の中にでてくるギリシャ語です。 しかし、この「時」は人間が時間で計る時ではありません。このような「時」はギリシャ語では(クロノス)といいます。カイロスは春夏秋冬という季節が人間の力でなく、神の力によって訪れるように、神が定めてくださる時として「季節」と翻訳されることもあります。 このように、カイロスは神が定めてくださる時であり、人間の日常生活では人と人との「出会いの時」であります。 神に導かれて人と人は素晴らしい出会いの時を与えられます。 神に導かれて、人は素晴らしい仕事にも出会わしていただきます。カイロスは、そのことを心から思い起こさせる言葉であり、神学や哲学の中で重要な言葉となっています。 弟子たちが主イエスに出会い、歴史の時の流れの中で人々が信仰の交わりを保ってきた背後には、常にカイロスの喜びがありました。 そして、今のこの時もカイロスを与えてくださる神の働きが継続し、それは世の終わりの日まで変わることわありません。「カイロスの家」は「神が与えてくださる素晴らしい出会いの家」として、多くの人々がここで出会い、交わり、成長する事を祈って建てました。この建物には、カイロスの喜びがあります。
2001.01.24 最近、私が思っていること。 「デジタルとアナログ」
二十世紀は、開発と破壊の世紀であり、二十一世紀は、発見と癒しの世紀だと思います。 自然及び環境破壊を、新しい微生物の発見により浄化していく、DNAの解読、すなわちハードからソフトへと移行し、IT革命により、コンピューターを中心とした情報革命が進行していく中で、デジタル社会を迎え、人間の考え、すなわち人間のソフトの部分までデジタル化していく、年功序列、上下関係は無くなり、結果重視、過程は軽視、感情と感性はうすれ、シュミレーション(疑似体験)、体験せずに経験をする、人の痛みが分らず、少しずつ人間の心が壊されて行くように思います。
ハード面においてのデジタルは、大きな電力を必要とせず、熱が無く冷たくてクールで、髪の毛のような細い光ファイバーで、何百キロ先を雑音もなく、減衰することなく、多くの情報を送ることができる、だが人間の感情、感性までデジタル化していいのだろうか、そこで人間のソフトの部分をアナログで考えてみたらどうだろう、昔の真空管式ラジオを思い浮かべてください、ヒラメントが赤くなるまで動かない、すなわちアナログとは、デジタルに比べ、雑音と無駄な時間と空間を浪費するが、しかし雑音はドルビーで和らげ、臨場感をだし、無駄に思える時間と空間は、「やすらぎ」と「ゆとり」をもたらす。(最近、真空管式アンプを求める音楽家が多いと聞いている)
すなわち人間には、無駄に思える時間と空間が必要であり、そこから芸術が生まれ、豊かな感性が磨かれると思います。最近の若者の犯罪は感情の欠落からくるのではないだろうか、神はゆっくりとした時間の中で、地球とそこに生きる諸々の生き物を育んできました、それはまさしくアナログ的であり、ゆっくりとした時間の中で、地球は浄化してきたはずなのに、人間の競争原理の中で、時間を早め、自然破壊から伝動し精神破壊へと早めています、大きな代償を払い、いったい人間はそんなに急いで何処にいくのでしょうか?