論語読書会                           

為政第二

 

以下は、読書会に備え調べたこと、また、議論したことを、岩倉紙芝居館館主が独断で記載したものである。

1)子曰爲政以コ譬如北辰居其所而衆星共之
yuē wéi zhèng běi chén suǒ ér zhòng xīng gòng zhī
子の曰はく、コを以て政を爲すは譬れば北辰の如し。其の所に居りて衆星之を共む。

北辰は北極星座北極紫微)。司馬遷の天官書、律書に曰、「天の中宮は北極星座、最も明るいのは太一(神)の居。そばの三星は三公あるいは太子。うしろの四星の末は正妃、三星は後宮。そのまわりの十二星は藩臣。すべてを紫宮という。北斗七星は天帝の乗車で、天帝はこれに乗って天の中央をめぐり、四方を統一し、陰陽を分け、四季を立て、五行の活動をなめらかにし、季節を移し、諸紀を定める。」
共は、人により解釈が異なる。恭の初文、善鼎
(ぜんてい)「徳を秉(と)ること共純」叔尚父禹皀殳(しゅくしょうほうき)「明徳を共(つつし)み威義を秉る」とあり、いづれも恭の義に用いている(字統)


2)子曰詩三百一言以蔽之曰思無邪
yuē shī sān bǎi yán zhī yuē xié  
子の曰はく、詩三百、一言以てこれを蔽ひて曰く、思無邪。

司馬遷曰く、「古は詩三千餘篇、孔子に至るに及び、その重なるを去て、禮義に施すべきを取り、上は契殷の始祖・后稷周の始祖を采り、中は殷・周の盛を述べ、幽殷の衰微君周の衰微君の缺に至り、衽席しとねに始まる。故に(曰)、關雎の亂は、以って風の始となし、鹿鳴は小雅の始となし、文王は大雅の始となし、C廟は頌の始となし三百五篇あり。孔子皆これを絃歌し、以って韶・武・雅・頌の音に合わせることを求む。禮樂これより得て述べえ、以って王道を備え、六藝を成す。」明治書院風とは民謡十六国風があり、小雅、大雅は貴族社会の詩の様式、頌は廟歌。
思無邪は思(おもひ)(よこしま)(なし)と訓じられる。経、魯頌(ろしょう)(けい)篇の「思無邪 思馬斯徂」からとられたもの。これ、ひたすらに、この馬これ徂(ゆ)く、の義で思は助詞、 (これ、ここ)、として用いられているとされる。詩三百読まずして申すもはばかられるが、一言で述べれば、ずばりそのもの、余計なことなく、ひたすらさが感じられる、ということか?蔽(おほふ)は、草がおおい茂っていることが原義、旗幟蔽野(はたやのぼりが野をおほふ)と用いる。


3)子曰道之以政齊之以刑民免而無恥道之以コ齊之以禮有恥且格
yuē dào zhī zhèng zhī xíng mín miǎn ér chǐ dào zhī déqí zhī yǒu chǐ qiě
子の曰はく、これを道くに政を以てし、これを齊うるに刑を以てす。民、免れて恥なし。これを道くにコを以てし、これを齊うるに禮を以てす。恥あり且つ格る。

道はみちびくこと。行きて正すことを征、攵(むちうち)て正すを政という。齊は、髪の上に三本の簪笄(しんけい)を立てて並べた形。祭祀に奉仕する婦人の髪飾り、つつしむ義である。斉一の義があるのは、祭祀に奉仕する婦人たちの整斉の容をいうもの(字統)。“ととのへる”と訓じている。やってよいこととわるいことの規範を整えること。前者は、平成の世の言葉でいえば、道義的には責任があるかもしれないが、法は犯していないと居直る人を見るようなものだ。格は“いたる”と訓じている、字義の多い字で“ただす”とも訓じる。みずからをただすこと。自らを律するということがなければ、法と刑で国政を正しえないとなろう。

4)子曰吾十有五而志于學三十而立四十而不惑五十而知天命六十而耳順七十而從心所欲不踰矩
yuē shí yòu ér zhì xué sān shí ér shí ér huò shí ér zhī tiān mìng liù shí ér ěr shùn shí ér cóng xīn suǒ
子の曰はく、吾、十有五にして學を志し、三十にして立ち、四十にして惑ず。五十にして天命を知り、六十にして耳順ひ、七十にして心の欲する所從ひてに矩を踰へず。

孔子の父は武人であり、顔氏の女と野合して孔子を生んでいる。正妻ではなかった。孔が姓、名を丘という。頭のてっぺんがへこんでいたために丘とした、尼丘山に祈って生まれた子であるから丘としたともされ、字(あざな)は仲尼という。仲が二番目の義であり次男。三歳で父を亡くし、母の里に戻って暮らす。葬儀の真似事をして遊んでいたとされ、母方の里は葬儀に関連する集団であったと推定されている。その母をも十数歳で亡くす。丘は母の棺を仮安置し、結局は父の墓を捜し、孔家の許しを如何に得たのであろうか、合葬している。孔氏にこだわりながら、武人の父とは異なり、15歳で學を志した。貴族の子であればともかくも、この時代、貧困で孤独な少年が學で身をたてる道がどのように開かれていたのか?定まった師につくなどできる境遇にはなく、生活の中、人の世に残されているものを、學而時習之、ひたすら問いかけ、納得のゆくまで追求されたのであろう。30歳でめどが立ち、40歳でこの道でゆこうと腹が決まり、50歳で知天命。
孔子は、36歳の時、魯において三桓子の封じ込めに失敗して、斉に亡命した昭公に従っていた。魯を啓いた周公の禮を復興せんとして、昭公についたのが孔子の學のあり方といえる。亡命中の昭公が斉で没し、弟の定公が位を継いだ前後、43歳の頃(前510年)に孔子は魯に戻っている。子路、閔子驀、冉有らが入門し、教団が形成されはじめる。定公に随行し、斉の景公と名相晏子とわたりあい、舞踊にかこつけて定公を威圧せんとする企てを封じ、その非をもって失地回復をしたのが53歳。しかし、三桓子の武装解除に失敗し、56歳以降、魯を出て諸侯を訪ねること14年、諸国を放浪する。そのはじめに匡で殺されそうになった時に孔子が、「文王すでに没し、文ここ
(孔子)に在らずや。天この文を喪ぼせば、後に死す〈後世の〉者この文に与(あづか)るをえざる。天いまだこの文を喪ぼさざるに、匡人予を如何せん。(子罕篇)」と述べた。周を啓いた文王の天命を後世に伝えるのは予なり、と宣言している。司馬遷は庶人である孔子を列伝ではなく、世家に列した。天命を得て王朝を開いた者は本紀に列せられる。漢王朝の史家である司馬遷が、序列を乱して、孔丘を世家に列したのは、知天命を認めたことによろう。
天命に順
(したが)って諸侯に説くも、受け入れられぬが如何ともしがたき時の現実。耳順。不患人之不己知患不知人也。人の言葉に素直に耳を傾けることができるようになった。70歳とは魯に帰還した一年後、事実上、政治的生命は絶たれており、春秋(史書)や易を注することに精力を注がれた。矩(さしがね:直角であることをただす)は矢と巨からなるが、夫が矢に転じたもので、夫は巨を持つ人の姿。“のり、法度;規範”と訓じているが、法を犯さないという風なものではあるまい。踰(こえる)は、ここからあそこへ移ること。相手の心にズカズカ入り込んだり、無理やり押し付けたりすることがなくなった、というか、諸侯へスバリ厳しく言上しても、諸侯が強要されたと感じ反感を抱くようなものではなくなった、とでもみたい。

5)孟懿子問孝子曰無違樊遲御子告之曰孟孫問孝於我我對曰無違樊遲曰何謂也子曰生事之以禮死葬之以禮祭之以禮
mèng wèn xiào yuē wéi fán chí gào zhī yuē mèng sūn wèn xiào duì yuē wéi fán chí yuē wèi yězǐ yuē shēng shì zhī zàng zhī zhī
孟懿子、孝を問ふ。子の曰はく、違ふ無し。樊遲、御す。子、これに告げて曰はく、孟孫、孝を我に問ふ。我、對へて曰へり、違ふ無し。樊遲が曰く、何の謂なりや?子、曰はく、生せばこれに事ふるに禮を以てし、死ればこれを葬るに禮を以てし、これを祭るに禮を以てす。

孟懿子(もういし)の父、孟僖子(もうきし)が前518年に亡くなる前に、若き孔子を評価し、孟懿子に孔子について禮を學ぶよう遺命している。実のところ孔子55歳、三桓子の武装解除に失敗したのは、最終段階で孟懿子が宰相公斂処父の言に従い成の武装解除をしなかったことによる。樊遲は孔子の弟子、名は須(す)、字は子遲(しち)、孔子より36歳少(わか)いとも46歳少いともされる。御(ぎょ)す、とは馬を御すことであり、馬車での会話となる。車に乗る身分の孔子であり、樊遲の年齢から考えても、55歳に近いと思われる。しかし、この会話は、その事件以前であろう。
(いま)す、とは父が存命中の義。事(つか)ふるは、“つこうまつる”とも訓じる。死(まか)る、葬(はぶ)ると訓じてみた。無違とは、樊遲でなくとも意味をとりかねる。孟懿子が何を違(たが)ふのかわからないが、孔子の言葉には従わなかったと思われる。孔先生、孟懿子が父、孟僖子につくすべき禮に不満があった。


6
)孟武伯問孝子曰父母唯其疾之憂

mèng wèn xiào yuē wéi zhī yōu
孟武伯孝を問ふ。子の曰はく、父母唯其の疾、これを憂ふ。

孟武伯は孟懿子の子。伯は長兄の称。唯(ただ)其の疾(やまひ)と訓じるが、礼記、檀弓(だんぐう)、上に「曾子、疾に寝(い)ねて病なり」とあり、疾は名詞、病はその状態の語とされる(字統)。父母が病に臥す前に、疾に気を配るようにすることか。歳老いた孟懿子を気遣っており、放浪前の会話ではなく、魯に帰還後の70歳を越えた孔子の言葉とみたい。

7)子游問孝子曰今之孝者是謂能養至於犬馬皆能有養不敬何以別乎
yóu wèn xiào yuē jīn zhī xiào zhě shì wèi néng yǎng zhì quǎn jiē néng yǒu yǎng jìng bié
子游孝を問ふ。子の曰はく、今の孝はこれ能く養ふを謂ふ。犬馬に至り皆、能く養ふ有り。敬まずして何を以て別たむか。

子游は字(あざな)で、姓は言、名は偃、呉人、孔子より45歳少(わか)い。孔子が魯に帰還してからの弟子で、禮に秀でたとされる。社会生活を営む人間と動物を別(わか)つものは多々あるが、禮によることを求めた孔子である、子游は秀才であり物事の呑みこみはよかったが、敬(つつし)みて行うことに欠けると指摘したことになる。

8)子夏問孝子曰色難有事弟子服其勞有酒食先生饌曾是以爲孝乎
xià wèn xiào yuē nán yǒu shì láo yǒu jiǔ shí xiān shēng zhuàn céng shì wéi xiào
子夏孝を問ふ。子の曰はく、色難し、事有れば弟子其の勞に服し、酒食有れば先生に饌す。曾ちこれ以て孝と爲すか。

子夏が孝を問うたのであるが、孔子は子夏に色(いろ)(かた)と指摘した。色難とは気持ちがこもっていないという叱責であろう。其の勞に服す、とは目上に言われたことはいやがらずに努めること。饌(せん)すとは、神に供物を供えることであり、曾とは元来は竈の上に置いた器(こしき)から湯気の上がる形であるが、ここでは、仮借で“すなはち”の義。目上に恭(うやうや)しく酒食(しゅし)を供することである。

9)子曰吾與囘言終日不違如愚退而省其私亦足以發囘也不愚
yuē huí yán zhōng wéi tuì ér xǐng huí
子の曰はく、吾と囘、終日言りて違はざること愚なるが如し。退きて其の私を省るに、また、以て發するに足る。囘や愚ならず。

囘とは顔回、姓は顔、名は回、字は子淵、孔子より少(わか)きこと30年。一日言(かた)りて、不違とは、異論をさしはさまないこと。愚(おろか)者に見える。其の私(し)を省()る、とはどういうことか?公私の公とは族長、貴族、私(禾:いね、と公:耜の象形、からなり耕作する人)とはその私属の隷農を云うのが原義(字統)、ここでは個人的なの義で、私事をさすとみる。退出したのは顔回、顔回の私事をじっと省、観察しているのは孔子。發とは、癶(両足をそろえ出発の用意をする)弓、殳(弓を射る)からなり、射儀が原義で、心より発することを発憤、発心という(字統)。顔回は自説を開陳するでないが、何か射かけてくるものがある、愚かならず。夫子温良恭儉讓以得之とはこのことでもあろう。

10)子曰視其所以觀其所由察其所安人焉廋哉人焉
yuē shì suǒ guān suǒ yóu chá suǒ ān rén yān sōu zāi rén yān sōu zāi
子の曰はく、其の以す所を視、其の由る所を觀、其の安んずる所を察せば、人焉ぞ廋さむかな、人焉ぞ廋さむかな。

省其私を説明していることになる。視は示と見からなり、神の降臨をみること、觀は雚と見からなり、鳥占いをすること、察は宀と祭からなり廟で神意をうかがうことが原義。以(なす)所、行動そのものを視、由(よる)所、何故そうせざるをえないのかを觀、安(やす)んずる所、本当はどうしたいのかを察する。廋(かくす、もとめる)は、叟(火燭)を照らして室内を捜すことが原義。顔回の本心が孔子には察しえた。

11)子曰温故而知新可以爲師矣
yuē wēn ér zhī xīn wéi shī
子の曰はく、温故して新しきを知る。以て師と爲すべし。

(ふるき)を温(あたた)めてと訓じられるが何をどう熱するのか?何故、古 gǔ でなく故 なのか? は顧(かえりみる)に通じる。温書とは本を復習すること、温熟は復習してよくわかっていること。温故は以前に学んだことを復習すること(中日大辞典)。鳥が卵を温めるごとく、学んだことを心の中で温めておく。詩、秦風、小戎(しょうじゅう)に「温としてそれ玉の如し。」というは故人をしのぶ句とある(字統)。孔子は、魯の始祖周公が残された禮をしのび、今の時代、次の世代にも通用するものを見極める、そういうことを自らの師としてきた。

12)子曰君子不器
yuē jūn
子の曰はく、君子、器せず。

不器は器(うつわ)ならずと訓じられるが、器とは何か?これも難解。四つの口と犬からなる。説文に、「皿なり、器の口に象(かたど)る。犬はこれを守らしむ。」犬牲を用いて清めた祭器が原義、人の上に移して、器量の意、役に立つことを器用という(字統)。器(き)せず、と訓じてみた。君子は、役に立てばよいというものではない、ということか?

13)子貢問君子子曰先行其言而後從之
gòng wèn jūn yuē xiān xíng yán ér hòu cóng zhī
子貢、君子を問ふ。子の曰はく、先ず其の言を行ひ、而して後に之に從ふ。

では、君子とは?子貢は問う。これまた、難解。其の言を先(ま)ず行うこと、とは成功するか失敗するかではなく、かくあるべしと思うことをことばにして、すぐ実行に移すこと。方針を示し、実行することができるのが君子。之は其言、從其言。從は、ある方針にしたがってやる(中日大辞典)こと。後はその方針に従って具体化すること、器とは、それを実施するに役に立つ人材をいう、ということか?

14子曰君子周而不比小人比而不周
yuē jūn zhōu ér xiǎo rén ér zhōu
子の曰はく、君子周して比せず、小人比して周せず。

比周とされ、比は、私心をもって偏り親しむこと、周は公正の道をもって交わり親しむこと(中日大辞典)。周(しゅう)は、模様の施された方形の盾、周の国号となったもの。文飾が蜜に全面にわたることから、ことばがゆきとどくことの意とされた(字統)。“あまねく、めぐる”と訓じられる。比(ひ)は二人相並ぶ形で、並列であれば親しむ、前後であれば従うことが原義。比類とは仲間のこと、比党とは徒党を組むこと、比肩とは比(くら)べること。
小人は君子の反として用いられる。書経、「無逸」に、周公のことばとして「小人をみると、その父母が農事の勤労をすれど、その艱難を知らず、気ままでぶしつけで、わがままにも父母を侮り、“昔の人に教えてもらうことはない。”というがごとき」とある。

15子曰學而不思則罔思而不學則殆
yuē xué ér wǎng ér xué dài
子の曰はく、學びて思はざれば則ち罔し。思ひて學ばざれば則ち殆し。

思とは、恖が元字で囟(頭脳)と心臓の象形、その思惟するところをいう(字統) 司も同音。(なし)“くらし:ぼんやりとして、はっきりしない”と訓じられるが、无、無と同じく、否定を示すのが原義。詩、小雅、戮我(りくが)に、「皇天、極(きは)まり罔(な)し。」とは天の助けのないことを嘆く意(字統)とある。自分で考えねば、何も學んでいないに等しい、と嘆いておられる。
(あやうい)は文語、説文にwēi 危きなりとあるが、危害に殆(ちか)づくことをいうのであろう。詩、豳風(ひんふう)、七月に、「殆(ねが)はくば公子と同(とも)に歸らん」は、自らの願う状態に殆(ちか)づこうとする意で、殆(ほとんど)とはそれに近い状態をいう(字統)。自らの願いありあまって放浪14年、生死にかかわる殆し経験をなめた孔先生にしてこのことばあり。弟子に諭したのみではあるまい。

16)子曰攻乎異端斯害也已
yuē gōng duān hài
子の曰はく、異端を攻めるか、斯れ害のみ。

何を學んでもよいとはいえぬ。學びて害になるものもある。異端とは旧字、正統でない主張や教義を指した(中日大辞典)。ものを学び究めることを攻学、攻究といい、薬草などで虫害を防ぐことを「薬草をもってこれを攻(おさ)む」という(字統)。何をもって異端の學とされたのか?

17)子曰由誨女知之乎知之爲知之不知爲不知是知也
yuē yóu huì zhī zhī zhī zhī wéi zhī zhī zhī wéi zhī shì zhì
子の曰はく、由よ、女にを知るを誨へむか。知るを知ると爲し、知らざるを知らざると爲す。これ知るなり。

(ゆう)は字(あざな)が子路、姓は仲、名は由、孔子より少(わか)きこと9歳。女(なんじ)は汝の初文。誨(おしへる)は段注(説文解字、段玉裁の注)に、「明らかに曉(さと)してこれに教ふ。これを曉して以てその晦(くわい)を破る。これを誨(くわい)といふ」と晦(くらい)の声義と関連して説く(字統)。司馬遷、仲尼弟子列伝によれば、孔子との出会は、「子路は(べん:せっかち)の人なり。性鄙(いや)しく、勇力を好み、志伉直(こうちょく:剛強でまっすぐ)にして雄鶏を冠し(雄鶏の羽根の冠をかぶり)、豭豚(雄豚の皮の剣飾り)を佩び、孔子を陵暴する(あなどり、あばれる)。」という。學とはほど遠い子路である。孔子家語によれば、孔子が子路に「何を好むか」と問うと、「長剣」と答えている。孔子が学をすすめると、「学に何の益があるか?南山に真っ直ぐ伸びた竹があり、これを切って(槍に)もちいれば、犀の皮すら貫ける」と反論する。「素直な性格のまま、真っ直ぐ生きることのどこが悪い」と問う。孔子は、「削って羽根をつけ、鏃(やじり)で磨けば、もっと深く入るではないか」と答える。竹をもっと美しく、鋭くするものが学という言葉に子路は弟子入りを決断している。また、子路は孔子のことばを聞いて、それが実行できない間に、次のことばをきくことを恐れた実践の人である。それゆえ孔子も子路には直截でまぎれのないことばを発することができた。論語読みの論語知らず、ということばがある。知之爲知之不知爲不知是知也、傳不習乎、是真行難(これまことに行ひ難し)

18)子張學干祿子曰多聞闕疑愼言其餘則寡尤多見闕殆愼行其餘則寡悔言寡尤行寡悔祿在其中矣
zhāng xué gān yuē duō wén quē shèn yán guǎ yóu duō jiàn quē dài shèn xíng guǎ huǐ yán guǎ yóu xíng guǎ huǐ zài zhōng
子張、祿を干むるを學ぶ。子の曰はく、多く聞きて疑はしきを闕き、其の餘りを言へば則ち尤寡し。多くを見て殆うきを闕き、愼しみて其の餘りを行へば則ち悔寡し。言尤寡く行悔寡くば祿は其の中に在らむ。

子張、姓は顓孫、名は師、孔子より少きこと48歳。詩、文王、旱麓に、「豈弟(がいてい)たる君子、祿(ろく)を干(もと)むること豈弟たり」とある、豈弟、とは凱歌を歌って凱旋する戦士、豈弟たる、はその様からして、“やわらいだ”と訓じられる。干祿の出所であるが、これにひっかけて、子張は祿、仕官について問うた。元来、仕官下手な孔先生である。尋ねにくいことを子張がぶしつけに問うた。
礼記、
王制に曰く、「郷に命じて秀士を論じて、これを司徒に升(あ)げるを選士という。司徒選士の秀でたる者を論じてこれを学に升げるを俊士という。司徒に升げられたる者は、郷に征せず(労役免除)、学に升げられたる者は司徒に征せず、造士という。樂正四術を崇びて四教を立つ。先王の詩書禮樂に順(したが)いて士を造る。春秋に教えるに禮樂を以ってし、冬夏は教えるに詩書を以ってす。」「大樂正、造士の秀者を論じて、王に告げてこれを司馬に升ぐるを進士という。司馬論を弁じ材を官にす。進士の賢なる者を論じて、王に告げ、その論を定む。論定まりて、然る後これを官にし、官に任じて然る後にこれを爵し、位定まりて然る後にこれに禄す。」
(か)くは、欠に同じ。其餘とは疑わしい部分をとり除いてなお残るところの義。それを愼しみて言うようになさい。(とが)は、ト辞からくることばで、尤あるか?尤なきか?神罰を受けるかどうかを問うものであった。咎は神罰がその人におりた形、悔は天の怒りが原義。自己の内面を省察する語に用いるのはその転義(字統)。寡(すくな)し、と訓じるが夫をなくした婦(寡婦)が原義。殆(あや)ういは、この場合はっきりしないこと。判然としないことをとり除き、それに基づき愼しみて行ふようになさい。お前の言動にはうわついたところがある、言有尤行有悔、それでは仕官できてもつとまるまい、と返ってきた。子張は思ったであろう。
やっぱりなあ・・・やめときゃよかった・・・

19哀公聞曰何爲則民服孔子對曰擧直錯諸枉則民服擧枉錯諸直則民不服
āi gōng wèn yuē wéi mín kǒng duì yuē zhí cuò zhū wǎng mín wǎng cuò zhū zhí mín
哀公、聞きて曰く、何ぞ爲せば則ち民服す。孔子、對へて曰はく、直きを擧げて諸を枉れるに錯かば則ち民服す。枉れるを擧げて諸を直きに錯かば則ち民服さず。

哀公11(484)、孔子69歳で魯に帰国して以降の問答。民が服さないのはどうすればよい、と孔子に尋ねた。(まが)れるは、説文に、「邪曲なり」とあり、元来は木を枉曲する意(字統)cuò (お)くと訓じているが、cuō (象骨をみがく)と同じく、砥石でとぐこと、元来は錯乱等、いりまじることをいう。直(なお)きを擧(あ)げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)かば民は服す。ところが公は、(どう錯綜されたか)枉を登用し、直をごしごし曲にといでいなさる。どうして、民が服せましょうや。ズケズケ申し上げて、七十而從心所欲不踰矩、14年の放浪がそうさせたのであろうか?哀公思へらく、
しまった・・・うかつであった・・・


20)季康子問使民敬忠以勤如之何子曰臨之以莊則敬孝慈則忠擧善而教不能則勤
kāng wèn shǐ mín jìng zhōng quàn zhī yuē lín zhī zhuāng jìng xiào zhōng shàn ér jiào néng quàn
季康子問ふ。民をして敬忠にして勤めしむるには如何にせむ。子の曰はく、これに臨むに莊を以てすれば則ち敬し、孝慈ならば則ち忠す。善きを擧げて不能を教ふれば則ち勤む。

季康子は哀公四年(前491年)に季孫氏(季桓子の後)を相続、名は肥、康は諡(おくりな)。勤(つと)むは、元来は農作業にいそしむことをいうものであるが、勤労全般に用いられる。“すすむ”とも訓じ、勤ではなく勧とするテキストがある。哀公と同じ問いであり、魯は、よほど民が服さない状況に陥っていたとみえる。敬しみて勤むること、忠をもって勤むることがない、どうすればよいのか?
莊は祭事における厳荘が原義で、おごそか、さかんなさま
(字統)。荘重に民に臨み、祖先に孝、民に慈を尽くす。善(よ)きを登用し、不能(ふのう)者に教育を施す、さすれば勤むという。民を仕向けるのではなく、自らを改めよと、迂遠なことをいわれ・・・季康子も困った。

21)或謂孔子曰子奚不爲政子曰書云孝乎惟孝友于兄弟施於有政是亦爲政奚其爲爲政
huò wèi kǒng yuē wéi zhèng yuē shū yún xiào wéi xiào yǒu xiōng yǒu zhèng shì wéi zhèng wèi wéi zhèng

或、孔子に謂ひて曰く、子奚ぞ政を爲さざる。子の曰はく、書に云ふ、孝や惟れ孝、兄弟に友し、有政に施す。是れ亦、政を爲す、奚ぞ其れ爲政を爲す。

或は、名を伏せて、或る人としているが、奚(なん)ぞ不爲政、では、先生、自ら政治をなされてはどうですか、と反問しており、哀公あるいは季康子を代弁していることになる。書経、君陳に「惟れ孝ならば、兄弟(けいてい)に友(いう)に、克()く有政(いうせい)に施(ほどこ)す」、施は移す意、有政の有は接頭語「親に孝であれば兄弟に友であり、それを政治にまで推し及ぼしていくことができるのである。」とある(明治書院書経下、小野沢精一著)。これは、西晋時代に論語などから編纂された偽古文とされ、漢以前の書経には、施於有政の句がないそうである。したがって、書経の語句の比定において、人により差がある。
君陳は、「昔周公、萬民に師保
(しほ)となり、民其の徳に懐(なづ)く・・・周公の訓(をしへ)を昭(あきら)かにせば、惟(こ)れ民其れ乂(をさ)まらん。」(明治書院書経下)と続く。國の大事は、祀と戈にあり。師は戈、軍事に関する。保は祀、祭祀に関する。殷や周において霊の授受に関する儀礼に関与する聖職者の称号であったらしく、その最高官を大保(たいほ)という、周公の家系は明保と称された(字統)。召公(燕の始祖)を大保といった。述べられる理想は、周の王政復古である。14年の放浪において、何を説いても如何ともしがたい現実をなめ、ここにかえらずんば民おさまらずの思いはますます固まった、とみる(或る人を陽貨とみて、陽貨の政権への誘いのあった時代と関連づける説有り、貝塚茂樹氏)。平成でいえば、徳育こそが国政の根幹、政治家のみが政治をしているわけではない、否、政治を乱している、と突っぱねたことになる。我が国の首相、米国大統領や中国主席にこう進言すれば、耳を傾けようか?あなたも孔子を支持しようや?孔子と同世代の人々も多くは非現実的提言とみなした、それは平成の世とて変わらぬ。

22子曰人而無信不知其可也大車無小車無イ其何以行之哉
yuē rén ér xìn zhī chē xiǎo chē yuè xíng zhī zāi
子の曰はく、人にして信なくば其の可を知らざるなり。大車に輗なく、小車にイなくば、其れ何を以てかこれを行らむかな。

知其可とは何であろう?信があってこそ可となるものがある。人と人の間の信が人の世の根幹を支える現実であるといいたいのではないか?兵(軍事)でも食(経済)でもない、信なくば世はなりたたない。(げい)(げつ)は、四頭の馬に同じ方向に輿車を引っ張らせるための横木と轅(輿車と横木を結ぶ)の接続部分である。それがなくば、何を使って行(や)らむ、前進させえようか。
人と人をつないで社会を前進させる根幹は、信であるという信念も放浪のなかで思い至ったところとみる。権力でも金でもなかった。マルクスは貨幣は商品なりと言った。国家の発行する貨幣も資本主義という世界のなかでは、国家という性格をはぎとられ商品として売買されるとみた。当時としては驚くべき知見であった。孔子ならこういうかもしれない。貨幣は国の信なり。国に信なくば、貨幣がいかほどの役にたちましょう。インターネット売買の世界でも、金を払えば商品が来る、商品を送れば金が来るという信が根本である。これを確立するにはどうすればよいのか?

23)子張問十世可知也子曰殷因於夏禮所損益可知也周因於殷禮所損益可知也其或繼周者雖百世可知也
zhāng wèn shí shì zhī yuē yīn yīn xià suǒ sǔn zhī zhōu yīn yīn suǒ sǔn zhī huò zhōu zhě suī bǎi shì zhī  
子張問ふ。十世を知りへるや。子の曰はく、殷は夏の禮に因り、損益する所知りへる。周は殷の禮に因り損益する所知りへる。其れ或ひは周を繼ぐ者百世と雖も知りへり。

十世先の世の禮がわかりますか?禮を研究する子張の問に、孔子は百世先でもわかると応えた。本当か?春秋(史書)に注した孔先生であり、歴史には詳しい。詩、書、易、伝説の聖王の時代から、夏、殷、周の禮への造詣も深い。平成の世の積算では、夏は17世約440年(BC2070〜)、殷は30世約640年(BC1765〜)、周はBC1121〜とされるからBC491年の孔子の頃なら630年たっている。告諸往而知來者、夏の往には殷の来、殷の往には周の来、周の往にはXの来、方程式が解ける。損は廃止される禮、益は追加される禮の義。日本人には孔子の禮は制度、思想を含み幅が広く、かつ行動様式としては煩わしすぎて、禮記なんぞもとばし読みに終わる。結局わからない。
大胆によもや釈を試みる。
何(如何なる治世)が民を損い、何が民を益したのかをつぶさにみれば、王朝の興亡は予測可能である。民を艱難から救い出し、民を益する人が民の信、天の命をえる、この信なくば国は啓かれない。祖先が得たこの信を損なうならば、世は乱れ、収拾がつかなくなる。孔子が生きたころの周は、もはや尋常ではその信を回復できぬところに来ていた。夏、殷の歴史を研究された孔先生は、それを十分自覚しておられたであろう。
では、秦が興り、後世、儒者が焚書坑儒の憂き目にあったり、漢の時代には一転、国学に採用され、以降国家運営の基礎的教養と崇められ、はたまた毛沢東共産革命の文化大革命でくそみそにたたかれ、平成の世に孔子学園
(孔子のことは横において中国語と中国文化普及を行う国営機関)として世界各国に売り出される、自らの禮の数奇な運命を見通しておられたのであろうか?
ありえまい。数百年周期の王朝交代がある。そろそろ新しい時代が来ても不思議でない時期であった。孔子は周を復興するあり方を世に問うたが、諸侯は自ら覇者となること、あるいは生き残ることが現実課題、とうてい容れられなかった。それは論語を読み進めば歴然である。更に、200数十年続く戦国時代を、孔先生は予測しておられたであろうか?その特異な時代が、国を越えた人間のあり方を問う諸子百家を生み出し、その代表的な学祖として自らが評価を受けるなぞ、実は予想外ではなかったか?
地方の農民を搾取して、中央を買収し、のしあがるのが中国の世の常。中央の繁栄の一方、格差が極端化し、流浪農民が反乱を起こすも、それを是正するために方向転換ができぬのも常。やがて、中国では清濁、善悪をひっくるめて人望を集めるものがあらわれる。風が起こり民がなびく。モンゴル族、満州族の興隆は、それからはずれるが、毛沢東に至り復活する。孔先生は百世(一世20年で2000年)先の禮をどうみておられたのか?雖百世可知也、むむむ・・・・
百世先の世代がこの時代の禮を知ることができるという風に読むとも、また、子張の問いに軽妙に反応し、過去の禮をもっとよく研究しなさいと孔先生がたしなめた、ともいう。読書会の皆様の意見拝聴。

24)子曰非其鬼而祭之諂也見義不爲無勇也
yuē fēi guǐ ér zhī chǎn jiàn wéi yǒng
子の曰はく、其の鬼に非ずしてこれを祭るは諂ふなり、義を見て爲ざるは勇なきなり。

日本人には鬼は、桃太郎の鬼退治の鬼。中国の鬼はピンとこない。説文に、guǐ は歸 guī なり」とある。人が死ぬと、その気は上にのぼり精となり、肉や皮は土に帰し、骨が残る。残骨を集め(場合により、まつ:祀)る姿、その象形が鬼の原義とされるようである。幽幻道士、キョンシー(僵屍)映画をみて、やっとぼんやり想像できたのであるが、強烈な怨念をもって死んだ人は死体が硬直したまま腐らず僵屍となり、夜に行動を起こし、これに咬まれた人も僵屍となるという。日本では、鬼とは云わず、幽霊、亡霊の類、キョンシーはないが悪霊の類。論衝、論死篇に曰く、「世の謂ふ。死人、鬼となり知ありて能く人を害す。」
其鬼は、ここでは僵屍にも幽霊にもあらず、親族、自らの祖先の霊を指すようだ。霊は靈が元字で雨、口3コ、巫からなり雨乞いする巫女をあらわすが、後、巫が霊を自らに降ろすことに用いられたそうである。自らの親や祖先でない鬼を祭るようなことが行われていたことを物語る。八佾第三につながる問題であろう。諸侯が天子の行う祭祀を行っていると憤る孔子の姿がある。諂
(へつらひ)であるばかりか、不義であり、正すべき勇気はないのか。
いきなり、八佾に結びつけるのはどうかともされるが・・・



爲政第二 了 2006.10.30

 


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